歴史と感謝、偶然と偏屈

ブックオフに『人間みな病気』があったのでつい懐かしくて買って、色川武大の「したいことはできなくて」を再読したら、なんだか高校の頃とは正反対の読後感があった。べつに怖くない。昭和30年代の話だし、今とは状況がいろいろ違うことを考慮にいれても、そう思う。「したいことのために、チームを組まなくて」という話なのだ。私は30を過ぎて、食えないフロイディアンに変貌したから、井上英雄(ふさお)の「したいこと」とは、女の前で憎悪にふけってみせたり、愚痴や恨み言を女にぶつけることだったのだろうなと思うばかりである。そういうかたちで、井上は自己を実現したのである。だから、色川のこの短編のタイトルは間違いなのである。人間はいくら避けても自己を実現してしまう生き物なのである。

小谷野さんが天皇制、天皇制といっているのも、結局は小谷野さんは封建制が好きでしかしそれを表立っては認められないから、こういう発言になるのだと思う。それを非難する気はさらさらないし、だいいちいまでも多くの人間は封建主義が大好きであろう。その頂点が将軍なのか天皇なのかはたまたオオキミなのか、そんなことは関係ない。国民主権などもその実態が茫漠としている様子は神にも等しい。序列が定まっていることに安心感があるのだ。民主主義が封建主義と違うと思っているのは民主主義者だけである。なにもこの心性は日本に限るものではあるまい。ドーキンスあたりが間欠的に科学論を出すのも、そういう事情があるのであろう。科学や進化が実在しているようにしか思えない、だっておれそのおかげで食ってるし、とかな。ないものをあらしめるために書物が書かれる。欧米あたりでは生きることが即ち公共事業、自己実現なのだろう(自己を現つまり社会に実らせる)。ポール・グリーングラスは、『グリーンゾーン』でなかなか客観的な視座を獲得した。あなたやわたしが「グレッグ・キニア」ではない保証はどこにある?

天皇制が存続したのは偶然によるだなんて笑止千万、たんに昔の人が迷信深かったから、というよりも迷信深くあることが人間の条件だったから、天皇制が残った、それだけの話ではないか。そこをいや信長が将門がということが、要するに欺瞞の導入なのである。もともと武士は天皇の子孫であることを建前にしていたのだ。あるものにある名称が割り当てられるのは、結局は偶然にすぎないが、迷信深くあることは偶然ではない。人類はいまでも死の恐怖と生の不安に振り回されているのだから。そして、死の恐怖や生の不安も、脳という臓器がつくりだすイリュージョンだから、それらの幻影にとらわれない個体も一定量存在する。それを人は、聖人だのバカだの気違いだのと呼んで、人の集まりから遠ざけたのである。