メタスリラーとしての『ゾディアック』

基本的には客観的なデビッド・フィンチャーの画面演出は、ところどころで演者がカメラを見据える主観描写になるのが巧みである(リー・アレンの尋問シーンなど)。

グレイスミスが妻に「犯人の顔を見たいんだ」と言うシーンで、この映画のテーマが語られる。だから最後からひとつまえのシーンでグレイスミスはリー・アレンの顔をまじまじと眺めるし、最後のシーンでは、グレイスミスの心とまなざしが正しく一致していたことを映画冒頭で銃撃されたマイク・マジョーが保証するわけだ。ふしぎな円環を実現して、映画はおわる。

見ること自体には、じつは危険はない。見たことを相手に知られることに、リスクがひそむ。『ゾディアック』はいわば、メタスリラーなのだ。真犯人は殺人に倦んだかストレスを感じるようになったかで、偽りの犯行声明をときおり出してメディアが反応することを悦びとする愉快犯に変貌する。ゾディアックもまた、見る側に、見たことを他人に吹聴するだけの「大衆」であることに「落ち着く」のであった。

見ることとスリラーのかかわり。古典的映画『サイコ』において、探偵アーボガストはベイツモーテルの殺人鬼の犯人を「見る」が生き残ることはできない。被害者マリオンの姉は、真犯人を見、そしてさらに生き残る。しかしいちばん多くを見渡し、さらに生命の危険をかけらも被ることのなかった存在は、観客である私やあなたなのである。