主観と客観

http://d.hatena.ne.jp/HIROMITI/20100703
「常民」なんて、いるんでしょうかね。

「反抗者」ということでいえば、犯罪者や精神病者、ひきこもり、あるいは自殺者などは、合計すればかなりの数がこの国土のうえに生息している・していたことになるが、こういう、社会との折り合いがつかない・つかなかった存在は、「日本の文化」とどう関わるのだろう。

客観の話をするには定義やデータ(数量化)が欠かせない。主観の話にはそれらは必要ないし、あったら話がつまらなくなる場合もある。

本当に、小林秀雄が「自意識にけりをつける」と思っていたら、数学でもやっていればよかった。主観の世界にとどまったまま主観を否定しようというのが、古来聖人たちが観客に見せびらかしていたパフォーマンスだった。小林も平凡な踊り手だった。ブラフマンだのニルヴァーナだの、対象はどこにある? 名詞は誰がいつ与えた?

主観だけでどうにかなると思いたい、どうにかなるような気がしている、たぶんどうにかなるだろう…。…さっさと対象を限定しなさいよ。

『OUTRAGE』のなかで、大友(ビートたけし)が抗争相手となった池元(國村準)に「さんざん体を使わせやがって」と毒づく。歴史は肉体労働を機械化しつづけた。労働をまぬがれた(あるいは労働からあぶれた)肉体は思考を欲する。対価と縁をもてない思考は権威を欲する。しかし権威は貨幣経済のなかではつねにかりそめのものでしかない(だから関内が組織の長でありつづける必要は毛ほどもなかったわけだ)。