『笹まくら』

もっと若い頃に読んでおけばよかった。段落変更だけで時制が移るのは、誰がはじめたんだろう。

戦後日本への違和感というテーマならば、開戦前から戦争を受け入れなかった浜田庄吉とは反対に、終戦後も戦後をうけいれずに時を過ごした小野田寛郎横井庄一のことを思い出す。この小説は彼らが発見される前に発表された(昭和四十一年)。私のよくいう「どの今が本当の今なのか」問題を、当時の丸谷才一もまた考えていた。時間の対比をあつかった『笹まくら』も、しかし、その小説自体が時の流れに相対化されて、後年の丸谷はイライラすることを止める、あるいは、若い頃のようにはイライラしなくなるのであった。澁澤龍彦の「日本回帰」のことを連想しもする。

ゆく年を送り、くる年のしあわせ多きを願って殷々轟々と鳴りどよむ原子爆弾は、百八の煩悩を払って嫋々としめやかに天地をゆるがせます。(『笹まくら』筑摩現代文学大系88丸谷才一小川国夫集 102ページ)


ゆく年くる年」のパロディなわけだが、すこしのちには筒井康隆が人類絶滅小説『霊長類南へ』などを出した。不謹慎なことを長編にまぎれこませるという手法は、『虚航船団』でくり返される。丸谷は筒井の文学的兄なのだなあ。