言論の自由とは言論の免責である

村崎百郎刺殺事件、犯人が殺人に訴えずに裁判に訴えていたらどうだったろうと思う。言論の自由があるから、村崎の文章はまず不法行為とはみなされないだろう。しかし、訴訟を連発すればスクラムにはなる。そして、文筆業者の利益を阻害すること自体は、言論の自由の侵害ではないのである。こうやってブログに書けばいいのだから。

突飛なアイデンティティで、不特定読者・観客にアピールする文筆家や芸能人は、そのへんどうなのだろう。デーモン小暮閣下とか、私は好きなのだが、妙な手紙や脅迫状とか、いろいろもらってるんだろうなと思う。十万年生きてるなんて、どれほど非科学的なんだ、と。ありえなさの点において、悪魔は鬼畜の及ぶところではない。

あたりまえだが、たけしが一番有名で、そして一番嫌われているんだろう。だからたけしにはボディガードがふつうにいる。フライデー事件ってあったでしょ。執行猶予は「おとがめあり」なのだが、一般人は「おとがめなし」のことだと思っちゃうんだよなあ。村崎刺殺犯と、たけしはおなじく「言論の自由の敵」なのだ。

免責されてしまうものに、そんなに熱くなるなよ、気軽に訴えりゃいいじゃないか。なぜ、それをしないのよ、と。