無許可で世界をつくることへの僻み

筒井康隆が文壇ということを過剰にいいだして、ある種の人たちがイライラしだしたのは1980年代からだろうか。まあねえ、そのイライラ、わからないでもないけど、いいじゃない、と思うのである。『輝く日の宮』で杉安佐子が、源氏にいれこみすぎて道長紫式部の会話を夢想するところまでいってしまうのだが、このあたりは、冷たい目で見れば丸谷才一が馬鹿に見えてしまうのだ。なにやってんの、と。「4」章がまるまる戯曲形式だったのが、この「6」章にも飛んで来ているわけだが、(読者の)経験が(安佐子の)主観に作用している事情をよく表現しているともいえる(橋本泰吉の言葉が道長のせりふとして回帰したりもする)。そういう遊びをまた筒井康隆もやっているだけではないか。

ある種の人びとは、人が他人に無許可で世界を造園しだすことに強い不快感をしめす。しかし天地のすべてを望むのは人間の業というものだ。

案外、筒井康隆も、言及するすべての人間に事前に連絡をとってコンフリクトを回避しているのではないか。いや、あんなにいろんな人のことを書いてしまうのだもの、腹立ち半分といいつつもそういうことをしているんじゃないかとついついいつも夢想してしまうのである。で、たまに気に入らない奴にはわざと連絡を忘れてみてイライラさせてみたりして遊ぶと。