『ケンタとジュンとカヨちゃんの国』

青年の自我確立の苦しみを描いた映画。なかなか良かった。

親がいなくて施設で育ったケンタとジュンが「犯罪」を「突破」と読み替えることで、ふたしかな自我をなんとか維持しようとしていた。もちろんこれは家族がいないことの屈辱から目をそらすための方便にすぎない。

ケンタのロールモデルであるような兄は、いまは刑務所に収監されている。目的をもたない、あるいは目的をもつという生き方を知らないケンタとジュンは、とりあえず、この兄にもういちど会いたいというところから、生きるということをはじめてみることにする。

兄はロリコンで幼女をさらい、そのことを罵倒するユウヤの腹をカッターナイフでざくざくと切り裂いた。そのせいで収監されたのだ。その兄は、自分を「生きる理由」として「利用」しようとするケンタをも冷たくあしらう。兄を励ましているようで、その実ほんとうは、ケンタは自分を励ましているのに過ぎないことを、映像で表現しているカットが秀逸だ。

この再度の自己否定に、ケンタは挫折してしまう。かつて兄を救うためにパトカーへバイクで突っ込んだケンタは、もういちどおなじことを反復してしまう。今度は兄を救うためではない。

心が折れたケンタは、ただ焚き火を眺めていることしかできない。しかもそれはよそのグループが楽しむ焚き火で、兄に会う前に自分たちが憩っていた焚き火のシーンとの対比になっている。そしてからんできたチンピラを殴りつける。カヨと出会ってケンタ以外の心の支えを得る経験をしたジュンは、ケンタに殺されたユウヤがもっていた拳銃で、ケンタを制止する。カヨの引き止めをふりきってジュンは傷を負ったケンタを連れて冥府へ向かう。いい経験をすれば、他人から認められる経験をすれば、人はすすんで死ぬこともできるという、人間存在の矛盾。

あの水平線は、やはりゴダールの映画なんだろう。なにより気持ち良さそうにバイクをとばすふたりの男は、デニス・ホッパーの映画ではないか。