アフターダーク

小谷野さんとツルシ元編集長のやりとりを、私はちょうど『レフト・アローン』の復習として受け取ったのだった。

ふと思うのだが、宅八郎切通理作の電話番号を誌面にのせて、しかし何も起らなかった場合というのを考えてしまうのだ。

おととい見た『パトリオット・ゲーム』でも、ハリソン・フォードがはっきり発音していた電話番号を、しかし字幕は下2桁を伏せ字にしていたのである。神経過敏なことだと思うが、「まあ仕方がない」。

出版社にとっては、実害があったことはオマケである。その遊びは、遊びじゃないよ。出版社のジャッジが下ったのだった。なんともう15年もまえのことだ。

遊び。なにが遊びなのかは、じつはよくわからないのである。「本の内容を本気にするなんておかしいよ。価格を抱かせて店頭に並べているだけだもの。消費者は、価格のぶんだけ責任を負えばいい」。

なぜ、ツルシ元編集長が切通についてコメントしたくないのか、私にはなんとなくわかるような気がする。本当は友達になりたかったのに、相手は初手から弁護士を介してきたので、絶望したのだろうな。絶望したのだ、きっと。

わりと最近(いちねん前か)はじめて『イカす!おたく天国』を読んで、私は、ようするに泣いたのだ。泣いたのだ、としか、言えない。なぜ人は好きなことをして気ままに生きていくことができないのだろう。

そのとき宅がオウムに殉じたことを強く思ったが、ツルシ元編集長もまた殉じたのだったなあ。大塚英志宮崎勤のことを思ったとき、世間の人々はその意味がよくわからなかったから、大塚を遠巻きにながめるしかできなかった。文学の香りすらかいだ人間もいたかもしれない。しかし、オウムのことを思うことの「不届きさ」は「誰の目にも明らか」だった。オウムのような存在を必要とする人々のことから、要するに日本社会は目をそむけたのだった。処方箋のない恐ろしいカオスから、目をそむけたのだ。


助けをもとめる人間から目をそむけた者たちが、ゆっくりと怪物へ変身していくことを、誰もとどめることは、できない。彼らを罰する神は、存在しない。