『発語訓練』のころ

小林信彦の芸人評伝を愛読している友人が、しかし小林の小説のほうはつまらないと決まり文句のようになんどもくり返すうちに、ふつふつと小林への関心が再燃して古い文庫本を買ったのである。

『素晴らしい日本野球(「発語訓練」改題)』というのをぱらぱら眺めていたら、「到達」という短編のなかで、これは発狂した私小説家の短編?という体裁なのだが、「私は銘柄にはまったく興味がない。」ではじまる段落に、行も変えずに、「ローデンストック」だの「マルウィッツ」だの「ポロ」だのブランド名が頻出していて、ようするに「この話者はなんだかおかしいぞ」と読者に思わせるために作者が仕掛けた「とっかかり」なのだが、どうもうまくないのだ。

そういえば、ブランドということで連想したわけだが、私は田中康夫のデビュー作も読み通してない。『優雅で感傷的な日本野球』も、そう。両者にかかわる名詞群には「江藤淳」というものがあるが、小林とたぶん同年うまれのこの人物に、小林信彦はわりと関心をもたず、江藤も小林の揶揄の対象になるような領域に棲息していた存在だった。

「素晴らしい日本○○」というのを、このじき小林はさかんに構想していたらしい。この、「素晴らしい」というのは何だろうと思うのだ。あるいは、当時のテレビの「すばらしい世界旅行」のことが小林の頭の中にあったのだろうか。ならば、「世界の社葬から」なんてのも思いついたかもしれないな。

うまく展開できずに中絶した短編、「発語訓練」の途中で、ドラマがコマーシャルで中断されるように、小林は自己の思いを吐露している。この形式も、ヴォネガットに倣ったのだろう(名前が出てくる)。なんの思いか。それは「私の塙嘉彦挫折体験」と呼べそうなものだ。ちょっと意外だったのだが、小林もまた塙に筒井を紹介していたのに、筒井は大江経由として塙との出会いを文章にのこしている。別に誰かが嘘をついたのではなくて、各人において情報の選別がおこなわれたというだけだが、小林の筆致にはある陰りがある。

「発語訓練」が完成しきっていないことに象徴される気がするが、ようするに、こういうのは「日本人が知らないアメリカ人の生態」をも作品にもりこまないと、面白くならないのに決まっているのだ。日本人の扮装をしたアメリカ人の扮装をした日本人を、じつは小林は書いているのにすぎないのだ。それのなにが悪いと開き直るのも手だが(だから30年近く未来に棲息する私が、この本を論評することができる)、しかし結局のところ面白くはない。巻末エッセイを糸井重里が書いているのも、歴史の綾というか妙である。

ちなみに野暮をやっておくと「発語訓練」終わりの歌は、落語の「野ざらし」からのもので、「早く死体が揚がらないかなあ」という意味なのである。それをJAPに殺された英雄たちの「墓場」でやったのが不謹慎だ、というわけ。