傷ついたのは誰の心/ぬすっと(盗人)猛々しい

宅八郎の「甘え」に小林よしのりが応答せずに、宅が(ツルシ元編集長も)傷ついた一件を、(まだ)考えている。なぜ小林が宅に応答しなかったかというと、当時小林に近かった切通理作のことを宅が傷つけたからだが、宅にとっては切通のほうが先に自分を傷つけたわけだ。

対人関係の土台に、たがいに見えている/見えていない、それぞれの事項というものがあって、それが対人関係という「上部構造」を規定してるのだなあ、ということを思うのだ。宝島連載時代の小林よしのりが宅に言及していたことを、たぶん1995年当時の小林は失念していたであろう。

これはまったく記憶にたよって書くのだが、宅の好きなフレーズに「時系列にそって整理しよう」というのがあったと思うのだ。

時系列にそって記述できる、ということは、とりもなおさず、記述者は記述対象を把握しているということなのだ。現実を知っているものが、現実認知に障害をきたしている者(要するに知識の足りない者)に教えを垂れる。あの世代の書き手の論述スタイルって、宅に限らず、こうだった。

自分は知っている、そのことだけを根拠としていた者に、先行世代の小林はぶちきれてしまったのだ。知っていることって、そんなに大事か!? と。切通の個人情報を雑誌の誌面に載せるという「攻撃」は、「知の技法」の最たるものだった(俺も古い話ばかりしているね)。

たとえば強盗が被害者に「おれに会ったおまえの運が悪いんだ」とか言ったら、それは盗人猛々しいということになるのだろうが、この言葉、よく考えたら「(捕まった)強盗があらあらしくしている」という状態を表現している「だけ」なのだ。それだけで、ちゃんと非難の意味を帯びている、ことになっている。

なぜ非難の意味を帯びているのか。つまり、盗んだ者が、盗まれた者あるいは社会に向かって、認識を返しているからだ。物が、盗人を介して、認識に変換されている。その変換は、被害者や社会にとって、容認されざる変換であるのだ。だから「猛々しい」、つまり穏当なものではない。

知の涅槃境というのは、あるいは泥仕合のことなのかもしれないな、と思う。認識が物に変換されることなく、また、物が認識に変換されることもない。外部の者からすれば退屈きわまりない光景でも、当事者たちはそれぞれの立場や苦悶をかかえている。

とはいえ、そうそう、私は部外者でしかないのだった。そろそろ正気にかえって、かれらの期待やら煩悶やら失望やらから自らを解放しなければならない。

言葉と物―人文科学の考古学

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