戦争放棄を放棄する

自分でもまとまっていない考えを整理するために、人と話をしていたのだが、戦争の話である。

北方領土にメドベージェフが来たのを見て、ただただ率直に、「ああ、戦争を放棄するって、こういう結果を招くってことなんだなあ」と思ったのだ。

戦争を放棄したら、外国から、なめられる。こんなの、当然の話だったのだ。

日本の戦後って、要するに、戦争を放棄して、そしてなめてかかってくる外国にたいしてかりそめの優越を手に入れようと必死になる(環境問題とか)ことと、日本は戦争を放棄しても独特の良さがあると自国民を懐柔することとの二本立てでやってきた歴史だった。

戦闘と空襲と飢餓病気による大量死のトラウマがあまりにも強すぎて、言葉がうまく使えなくなってしまっていたのだ。それを隠すためになおさら能弁にまくしたてていた。

たまたま『伝説の教師』をユーチューブで見て、みそびれていた10年前の最終回をいまごろになって確認したのだが、伝説の教師は竹中直人のほうで松本人志は身代わりの多重債務者にすぎなかったようだ。いじめられっ子に復讐の手ほどきをした教師竹中だったが、教えをうけた生徒がやりすぎていじめっこを撲殺、竹中は教師を辞めざるをえなかったんだと。なんだか示唆的だ。暴力を放棄した竹中は、しかしより低度の暴力によって松本をコントロールして(小規模な)「世直し」をしていたわけだ。戦後の日本のように(このドラマの原案は松本なのだそうで、暴力で物事がうごくとした発想は、さすがに冴えている)。この竹中は、あの劇パト2(略すかね)の荒川なんだぜ。

たとえば没落する日本を英国に喩えて没落を肯定しようとする向きもあるが、その英国だってフォークランド紛争をやっている。北方領土にメドベージェフで、すぐ「戦争」をおもいうかべたのには、こういう下地があったわけ。

いいかげんにつまらない欺瞞をやめようよと、それだけを思うのだ。欺瞞だからダメなのではない。つまらないからダメなのだ!

沖縄だってそうだ。日本政府は、新通貨「オモイヤリ」を発行して、円との二本立てにすればいい。それを米国に米軍経費として支払う。基本的には1円=1オモイヤリだけれども、いろいろな商品でそのレートをがくーんと変えてしまうわけ。おれが何を言っているのか、わかるよね。楽しいぜ、きっと。

べつに戦争放棄を継続してもかまわない。しかしその場合は「戦争を放棄して諸外国からなめられる状況をすすんで楽しむ自虐的道化国家」の道を邁進するべきだ。それはそれで、私は嫌いじゃない。