現在だけがあることの恐怖

コン「ビ」ニでエロマンガを買おうと思って雑誌コーナーの陳列の様子をながめていたら、あんまり自分が、コンビニの雑誌の陳列を気にしたことがなかった、ということに気づいたのである。

私の場合、関心が点でしかなく、面になったことがなかったのである。本は、店に入る前に何を買うかを決めていて、よそ見はしない。あるいは、立ち読みをするのだと決めて入店したら、表紙を眺めたりすることなくいきなり中身を読み出す。私は、そういうヒトだったのである。

我ながら、マーケティングの範疇から外れた行動パターンに固執する人間なことだなあ、と感心してしまった。

余談だが、ふと思い立って、手塚の未読だった晩年作を漫画喫茶で読んでいるのだが、それは『ミッドナイト』などであるが、ああいう一話読み切りのパターンは、連載がいつ中断してもいいようにという配慮だったのだろうか。『ブラック・ジャック』などは連載終了後にも散発的に発表されている。それはさておき、で、はじめの話にもどると、エロマンガ誌というのは、読み切りマンガが多いのだね。連続ものは少数派だ。

マンガは産業で、産業にはファンはいらない。商品を出す度に出版社は勝負を賭けなければならない。続き物のマンガが主流を占める少年誌や青年誌は、だから産業というよりかは文化なのである(有力作家には隔週連載が許されたりする)。ファンが支えている。コンビニのエロマンガなど、中身を読むのを規制されているから、表紙で勝負するしかない。特定のエロマンガ誌を毎号買うファンだっていくらもいるだろうが、でも、たいていは無聊をかこった消費者が、間に合わせに買うものである。

で、そういう表紙たちを眺めていて思ったのだが、あ、これが現在というものなんだ、ということである。間に合わせのものに、しかし選択肢をあたえて、消費者に選択させる。受給者に選択が許されなかったら、もうそこは市場というよりは配給所である。(書きかけ)