風景画を捨てた日本人

はじめ「写実を捨てた日本人」と書いて、あわてて書き直した。べつに写実を捨てたわけではなくて、透視図法が一般化しないまま近世を過ごしただけなのである。「遠くの方を描いた絵」は、かつての日本人によるそれは絵よりも図に近いものになった。

文章というものが、堅苦しくいえば、自己の想念を文字を用いて自己の外側に存在させたものとすると、絵というものは、自己の視覚を外部に表出したものなのである。

だから、図と絵は、図が具体的になったものが絵であり、絵が抽象化されたものが図なのだという意味で、おなじものなのだと言ってもいいのだが、ここに「写真」という厄介なものがある。図と絵の区別というのは、写真以前にはそれほど真面目に考えられなかったのではなかろうか。

表装という文化が私には興味深くて、巻物や掛け軸にしたあとにさらに箱をつくって作品の由来を述べた紙を貼ったりするのが面白いのである。西洋にも、これに相当する文化があるのだろうか。

視覚によせられる信頼性は、写真以前の感覚をひきずったものなのだろう。記憶には錯誤があるかもしれない。音は消えてしまう。見えつづけるものがいちばん「存在」に近い。写真の登場によって、「絵は絵じゃないか」という素朴な感覚が「消えてしまった」。アナログ時代にだって、写真の修整技術は多岐にわたっていたが、いまはデジタルへの完全移行をそろそろ完了しそうな現代なのである。


これらの映画と同じ内容を、2Dアニメでやっても受けないんだろうな…。