視覚と位置情報

写真というものが真にショッキングなのは、それが視覚とは要するに位置情報にすぎないのだということを表沙汰にしてしまったところにあるのだろう。

新聞写真だけがそうなのではなく、写真そのものが、点(ドット)の集積で、その点の位置関係を脳が処理することで、「外界」を知覚する。

点が多いと、その状態に慣れない受け手は、心のなかに飽和状態を発生させて混乱する。写真が現実に等しいと思う人は、要するにそういう混乱状態のなかにあるのだ。巨大化と高精細化。

こちらは私の話。新作映画のデジタル上映に感じる違和感がまだ消えないのに、旧作映画のハイビジョン上映に接するようになって、混乱状態に拍車がかかっている。15年前の『セブン』をいまになってまた、フィルム上映特有の細かな揺れやかたつきのないハイビジョンで見ることの不思議、である(昨日体験したのだ)。フィルム映写にことさらに愛着を感じない映画ファンも着々と増えていくだろうし(たとえば、今の若い読書好きは生まれたときから活字ではなく写植の文字を読んでいるわけだから、彼らは「活字」文化に縁がないのだ!)。

映像は「現実」とはなんの関わりも持たないのだから、「ぼやけたVHSの画像やSD画質のDVDでしか見られなかったものが、ブルーレイになってわーきれい」と喜んでいればいいだけのことなのだが、考え込んでしまうのである。かつて劇場でしか得られなかった解像度が家庭で実現できることの認知不協和を。