「対象というものは、幻想である」

昨日、絵や視覚について書きながら言いたかったのは、ようするにこれなのである。

対象というものは自己と独立して存在するものではない、と。しかし対象がそれについて語る主体と独立で存在していることにしないと、社会の平安が保たれないから、対象が物として存在していることにしたのである、誰が? 「みんな」が、である。昔の人は、もっと洒落た「神」という名詞をこれに充てた。

「平和の実態」というのは、ようするに「嘘」のことであって、「嘘に怒る」という快楽に人を没頭させ、社会そのものの無意味さに目を向けさせないための技術の集積が、要するに「社会」なのである。

社会を(実は自己を)ディスクライヴする快楽は相当なもので、なぜここまで人間を惹きつけるのだろうと考えるのだが、要するに「仮想的に時間を止める」ことに、その本質がありそうだ。自己の快楽のために、視覚聴覚味覚嗅覚触覚を総動員。