しんだはずだよおとみさん

というわけで『セブン』を久々に見たのだが、レストランでトレイシー・ミルズとウィリアム・サマセットが会話するシーンを見て、『ゾディアック』の同じようなレストランでロバート・グレイスミスとデヴィッド・トースキーが会話するシーンを思い出した。作家というのは気に入った設定を使い回しするものだ。

そういえば、この映画の舞台の街を、私は勝手にニューヨークだと思いこんでいたのだが、設定上は「架空の都市」なのであるようだ。

とはいえ、こういう内容、つまり死が大事(おおごと)であるという話にはいまは食傷しているので、「西洋人の映画だなあ」とぼんやり思うだけだった。西洋人は死に拘るなあ。東洋人はわりと死に鷹揚だから、生前葬なんてするし(西洋人もするのかしら)、死亡届が出ないといつまでたっても年金を払いつづけるし、かなりいいかげん。手続きには拘るけれど、死そのものに関する興味は、かなり粗い。このへんの事情を養老孟司はひとことで表現している「死ぬという瞬間はない」。

日本人で死体のことを「体」という人はあまりいないと思うが、西洋人は「ボディ」で十分死体のことだと通じるもんな。「ボデーを透明にする」って、殺すことじゃないんだよ。被害者が殺されたことをあかす痕跡を消すことなんだ。「ほとけさま」って、西洋語にはどう訳せばいいんだろうか。

妻の死を知ったデヴィッド・ミルズが動顛のあまり発狂し、復讐などどうでもよくなってリア王のように荒野を歩みさる。生きながらえたジョン・ドゥは死ぬまで企図の通りに儀式が完成しなかったことに牢獄の中で苦しみつづける。東洋人としての私は、こういう結末にしちゃうけどね。箱の中身をみたサマセットがミルズをいきなり撃って(あるいはナイフを投げてミルズの腕を刺す、とか)観客が驚くというのが私のバージョンのクライマックスである。俺を殺せとわめきつづけるジョン・ドゥを見下ろしながら、サマセットは心の中で、その厭世観が図らずも共通していた自分と殺人鬼との相似性に思いを致すわけである。