手引きつきの西洋音楽史

「日々平安録」の宮崎純さんが長木誠司の本について書いているのを眺めて思ったのは、西洋音楽は普遍的なものなのか、それとも地域的なものなのかといったことである。

さらにはもっと俯瞰したことも思う。結局音楽は余裕のあるときにしか楽しめないものであることを。このレベルでものを考えたときは、西洋も東洋も、あるいは普遍も地域もない。

私は極度の楽理アレルギーで、好きなのはもっぱらロマン派である。ロマン派に楽理がないわけではないだろうが、それこそ「理屈ぬきで」好きになれる。バッハなど、ゴールドベルグ変奏曲など、イージーリスニングとして楽しむことはあるけれど、やはり敷居は高い。

私にとっては、なぜ西洋音楽が成功したのか、という問題意識は薄い。なぜロマン派は大衆の心をつかんだのだろう、というほうの疑問が強い。私もつかまれているからだ。ロマン派は「映画音楽」として、現在も着実に生き残っている。純邦楽やその他地域の民族音楽だけを映画音楽とした映画作品もわりとあるけれども、まあ、観られてはいない。

そうそう、バッハの音楽だって、映画(『羊たちの沈黙』『セブン』など)に使われることで、私のなかでの意味が変容したわけである。

いちど、一年くらいロマン派の演奏をしないで、オーケストラ業界は過ごしてみたらいいのだ。古楽からモーツァルトまでと、戦後のストラビンスキーから現在までの作曲家の作品だけでレパートリーを回してみたらいい。まあ営業はもたないだろうね。

そして思うのは音楽会のあのハンドアウト、手引き書のことだ。私は生演奏の「現象」を聴きにいくのであって、ああいう手引書はうるさく感じるほうである。捨てることもある。なんでみんな律儀に手引書を読むのだろうと思う。すくなくともロマン派のものを聴く際には、聴衆はサブテキストを必要としない(作曲家には依拠するテキストが必要だというのに)と思うのだ。