純、ね…。

小谷野さんの『現代文学論争』の純文学論争の項をがっつり立ち読みして帰宅。

阿刀田高ではないけれど、純文学という語彙は、個人的には使わない。シリアス文学、シリアスな文学、真面目な文学といったあたりを、私は口にする。

とはいえこのブログでも、純文学という言葉はぽつぽつ使ってはいる。忌み語というほどでもない。

純喫茶とか、純情とか、純粋とか純水(まずいものである)とか、あんまりいいイメージが純にはないのである。ピュア・リテラチュアって何、と思う。ヌーボー・ロマンか?

シリアス文学に対比されるものが、エンタメ小説である。あんまりエンタメ詩やエンタメ戯曲で有名なものはないから、ここはエンタメ「小説」でよいであろう。

シリアス文学が終わったかどうかというのは、およそバカらしい話で、オーディオヴィジュアルが発達したらそちらの方に向かう人々が、文学から脱落しただけである。

私はわりと笙野頼子はそれほど嫌いではないので、純文学論争の項の、ああいうオチのつけかたはよくないと思った。佐藤亜紀が怒るのは当然。小谷野さんとしてはいろいろ笙野にからまれたことへの鬱憤ばらしなのだとしても。是々非々なわりには受けたがって余計なことを言う小谷野さんの芸風。