「東海道五十一駅」(小谷野敦)

これは面白い。家族圏と社会圏のようなものがそれぞれあって、主人公はどちらからも解離しはじめている(「悲望」の後日談である)。不安が主人公にとりついて、安定した帰属先を得られない主人公の不安を増幅する。

これを読んではっとしたのは、ヨコタ村上孝之が迷惑なところもあるにしろごく普通の人間である可能性である。私は小谷野さんのカメラでしか彼を見ていないのだ。落ち着いて考えてみればわかることだが、「普通の人間」という言葉が指し示す対象は、ものすごく広い。広大、と呼んでもさしつかえないくらいに。個性的なものを書く人間は、しばしばそのことを、無視する。断罪としての文筆、死刑宣告としてのカメラワーク。

もてない男』が当たる直前の心象風景。1999年から、大騒ぎの日々がはじまるわけだ。

『退屈論』にたいしては、私はなんだかすっきりしない気持ちを抱いていたが、あれは、岸田秀森田療法に割り切れない思いを抱いていた小谷野さんが、それにふんぎりをつけるために必要とした儀式であったのだろうなあ、といまごろになって悟るのである。小谷野さんの書くことにはすべて種がある。

『聖母のいない国』の「日はまた昇る」論を、あとになって「ほんとは撤回したかった」と語る、いや、述懐せずにいられなくなる小谷野さんに、私はなにか同情に近い感情を抱いてしまうのである。愛されていることを知った上で、その愛を破壊してしまいたくなる、怪物のような(そして案外普遍的な)心のはたらき。