『劇場版ドラえもん 新・のび太と鉄人兵団』

『踊る3』では津嘉山正種が、わりと長い見せ場をゲットしていて、柳葉敏郎と対峙していたが、その津嘉山は、『世界侵略:ロサンゼルス決戦』の予告編で、ちょっと声の調子が悪いようだったので私は心配していたのだが、新しいバージョンの予告編では津嘉山に似た声質の別のナレーターに交代していた。

「世代交代」というのは、多くの人がそうであるように、私もやはりここ数年気にかけていることで、ドラえもんのアニメの声優やスタッフが大幅に入れ替わったことなどは、その最たるものだろう。もう一つの長寿アニメであるサザエさんは、大掛かりな交代劇をおこなわずにこまめに新陳代謝を続けているようだ。

もともと平成に入ったあたりから私個人はドラえもんから遠ざかっていたが、今年のはじめに仙台に泊まって、たまたま地デジの液晶ハイビジョンで『のび太の恐竜2006』を見て、ちょっと驚いたのである。ジャイアンがあまり大きくなかったり、アニメなのに描線が1970年代のそれのように太かったりするのが新鮮だった。

そのころから今度の劇場版を映画館で見ようと思っていたのだが、この地震である。新しいドラえもんと私の間には仙台という要素が抜きがたく存在する。同じ日にやはり『羊たちの沈黙』を、私は深夜地デジ放送で見ていて、最近トマス・ハリスに入れ込んでいるのは、これもこの日の仙台のテレビ放送が関わっているのだ。



画像はことし1月3日の仙台駅ターミナル。ファイルサイズを変更して色もいじっているので、画質がかなり劣化している。


地球から遠く離れたメカトピア星ではかつて厳格な階級制度が敷かれていて、貴族ロボットと奴隷ロボットとの間に境界線が引かれていた。現在、メカトピアにも民主主義が勃興、発展して、奴隷ロボットの身分が解放されつつあり、欠乏した労働力を補うためのあらたな資源として、惑星・地球の人間たちが注目されたのだった。人類狩りは神の定めた義務であるとして、いま、メカトピア星から鉄人兵団の先発隊である少女型ロボット、リルルが出発した…なんだかまるでネオコンの物語を聞かされているようである。

原作マンガや原典版の映画は記憶の彼方なので、詳細な比較はできないが、ジュドの電子頭脳がキャラクター化されるのは、これはリメイク版オリジナルだと思う。小学生の頃の私は、リルルを撃てないのび太をリルルが「意気地なし!」となじるシーンに、子供ごころにもなんだかズキッとするものを感じたが、この歳になると、さらにさらに複雑な感情に襲われるものだなあ、と思いながら観た。

『るにん』や『踊る3』を見た直後なので、どうしてもセックスや生と死のことを考えてしまう。ドラえもんの劇場版は、そういえば子供を引率する親も観るし、作り手ももちろん子供の親たちの世代なのだ。子供というのは親にとって楽しみでもあるし、心配なものでもあるよな、と今のところ子供をもつつもりのまったくない私などはぼんやりと思う。最近新しい映像がリークされたニューヨークの世界貿易センタービルのような瓦礫と化した赤坂プリンス似のビルや、廃墟のなかから突き出したリルルの手など、作り手は意図しなかったであろう破壊表現がちくちくと現在の私の心を刺激してくる。

タイムパラドクスSFの常套で、この作品もまた、「それまでの厄介ごとを、さらに過去にさかのぼって解消することで、トラブル自体がなかったことになる」オチになる。そうだよな、なかったことになってしまうんだよなと、誰にというわけでもなく私はひとるごちる。人は死んで、それまでのことはなかったことになる。あるいは、歴史になり、リメイクの対象になる。

この映画のオリジナルから20年以上がたって、日本のアニメはエヴァンゲリオンも『イノセンス』も通過してしまった。ザンダクロスを乗り回すのび太に、私達は碇シンジの姿を、捨てられた人形を自宅へ連れ帰るしずかに、私達はかくれ人形愛者のバトーの姿を、それぞれ思い浮かべるまでに長く生きてしまった。いまの小中学生にとって、藤子・F・不二雄は、生まれたときから故人なのである。