『獄中記』読後感

どちらかというと「佐藤優紙ブログ」という印象のもので、獄中の具体的な生活のあれこれはかなり省略されている。膨大なノートから相当けずってこういう形になったものらしい。

正直言って私は宗教にも神学にも関心が持てないが、社会にかんして考察を深めると、主観的な、それこそ妄想とあまり変わらないようなイデオロギーの世界に突入していくしかないということは、まあわかるのである。たとえば少子化なども、結局は唯物論的な事象ではなく、精神分析がより実相に近い真実をあぶりだすたぐいの現象だと思う。

なぜそれをするのかと問われて、じつはうまく答えることのできないことばかりを私達はしているのだ。

いきがかりのことを、要するにもっと高級に「神」と呼んでいるだけなのだろうと思う。神を馬鹿にされて信者が怒るのは当然なのだ。そういう意味でいえば、たしかに私にも「神」はいることになってしまう。私は神に動かされている。「あれ」のことを「神」と呼ぶのならば、ああ、それはたしかにそうであるといえる。

私は皮肉な精神分析者なので、佐藤がしきりに「後悔していない」「拘置所ぐらしは楽しい」などとくりかえす度に、本を読む私の顔が黒い笑いで歪んでいくのを実感する。本当にそう実感している人は、あはは、佐藤さん、そういうことを言わないものなのですよ。もちろん、こうからかわれたら、佐藤は、あれは私のことを心配する塀の外の人々へのパフォーマンスなのだと返すのであろう。

私は、言語というものを、厄介だが役に立つこともある便宜にすぎないと位置付けているので、佐藤のような人は、ご苦労様だなあと思うのである。私は極度に視覚的な人間なので、映像や風景をぼんやりながめていられたら幸せなのである。今夜の月はよりいっそう冴え冴えと輝いていて感銘をうけた。

あるいは、過去や未来をまるで現在と同等のものであるかのように扱っているので、私には佐藤のことがなんだか信用ならない、という言い方もできるかもしれない。私にとって、過去や未来というのは便宜にすぎない。現実にはつねに現在しか存在しない。歴史は過去ではなくて、かつての現在をもとにつくられた現在でしかない。記憶というのも、もちろん現在のものである。