「名を匿って、公にもの申す」

じつは私はあんまり匿名であることに関心がなくて、学生時代には戸籍名でネット活動をやっていたし、そもそも無名人だから、名乗りということにそれほど意味を見いださない。

このブログだって『…の日記』としているように、要するにバーチャルな「チラシの裏」、なのである。私が、私の考えていることをよりくっきりさせて、私自身が愉快になるためにやっている。他人のことは、さして気にしていない。

『名前とは何か』を買ってきて、武家官位などの章はゆっくり読んでいくものだろうから、これは後回しにして終章だけ先に読んだのだが、そもそも匿名記事というのは何なのだろうということを思った。

封建時代の落首や評判記のバーチャル版なのではないかしら、と思うのである。『名前とは何か』では、小谷野さんは落首を政治目的のものだとして、その匿名性を容認しているけれども、作家や学者がやっていることも結局は政治だということを、学者の周辺についての記述も豊富なこの本自体が「雄弁に物語って」いるし。

荻上チキの本名暴露エピソードも、東京から疎開した東浩紀が伊豆で地震に遭ったのと同じ、要するに笑い話にすぎなくて、たとえば静岡の地震が激震で東が死んでいたり、ネット上の有志や小谷野さんの暴露によって荻上が失職したりしていたら、やはり笑い話にはならなかったろう。無造作に荻上の本名をばらしたりせずに、ヒントがどうとか書くから、荻上は小谷野さんに対して逆上したのではないか(なお、封書に荻上が自分の本名を明記していたエピソードに、私には妙にひっかかりを感じていて、これを私は荻上の粗忽さとして受け取っていたが、あるいは、荻上が小谷野さんに甘ったれていた可能性というのも考えられるのである)。私は、小谷野さんのそういうところはつまらないと思うので、小谷野さんのブログの当該記事などは読み流していた。荻上にも興味はない。

だいたい、そもそも小説というのが「バーチャル化、匿名化された現実」だと思うのだ。SF小説などは、「非現実化を手段とした現実の描出」だろうけれど。わりと愚直かつ真面目に小説を読むせいで、あまりたくさんの小説を読めない、読む気もない私の正直な感想である。

匿名批評の対象にされた者が匿名批評家にたいして不満をいだく批評には、「(批評対象が身におぼえのない)不作為への非難」というものが多そうである。牛島秀彦の例などはそうであろう。私は無「名」人かつアマチュア精神分析者として、非難対象の名誉回復などにはおよそ興味がわかず、「不作為とはなにか」ということについて深い関心をよせるのである。なにしろ著者というのは「書いた人」であって、なにかをした人がいちばん不当に感じるのは「ヤツはなにもやっていない」と言われることに決まっているからである。事実とは何なのだろうか。

名前とは何か なぜ羽柴筑前守は筑前と関係がないのか

名前とは何か なぜ羽柴筑前守は筑前と関係がないのか