匿名 「調べてまとめる」と「私は見たよ!」のちがい

さてさて匿名批評というものの実例を私は知らないのだったと思って、なんとなく筒井康隆の『着想の技術』のことなどをぼんやり思い返しもしたが、筒井が嫌っていたのは、匿名批評子の「まぜっかえし」のことなのだろうと思う。

相馬悠々の現物を見ようとおもって、『文学界』の2007年10月号を棚からだしてみたが、とくにおかしくはないまともな文章である、と思う。

あとは、アマゾンの小谷野さんのレビューにたまにけちをつける"Alter Hase"氏だ。氏はドイツ語が読めるそうなので、それほど頭が悪い人でもないのだろうが、小谷野さんに言及せずにはいられない何かをうちに秘めているようだ。

『名前とは何か』はちょっと薄いような気もするので、小谷野さんは「私が唸った匿名批評・抄」を付録につけてくれればよかった。著作権料を要求されることもない?だろうし。

そうそう私にとっての匿名批評は禿山頑太(吉田健一)なのだった。最初から、名を明かされた匿名批評を読まされていたのだもの、私と匿名批評の縁は薄いものだったのだろう。

私は匿名批評というのは「いい気になるなよ」という意味のことを、手をかえ品をかえやっているだけなのだろうと思うのだ。

これは私はまだ『名前とは何か』を通読していないので、もしかしたら本に答えが書いてあるかもしれないのだが、そもそも「本名」というのは変な、近代的な概念なのではないかと思うのだ。「魂」とか、「生命」とか、「精神」みたいな。石原慎太郎は文学に興味ない人には石原都知事でしかなくて、下の名前を知らないかもしれない。さらには悪くいう人にとっては「閣下」でしかない。「社長」というのが尊称だったり侮蔑語だったりするのと、同じようなことだろう。まあ、閣下というのは間違い?なのかもしれないが(都知事の正式な尊称は何なのだろう?)。

【追記】いましらべたら、現代語としては名詞「都知事」を敬称あつかいにして、もし無理に「下」のつく敬称を用いるとしたら、「閣下」が、誤用ではあるのだけれども、いちばん近いのかもしれない、そういうものらしい。