急性と、慢性と

 妄想と幻覚の違いということに興味があって、図書館にあるわりと専門的な本を借り出して眺めている。妄想するということがどういうことかは、経験的にわかるような気がするけれど、私には幻覚体験がないし、本を書いている専門家たちもそうである様子である。

 もちろん入眠時幻覚なら身に覚えがあるが、幽霊的なものがすこし離れたところにじっとしていてこちらを窺っている類の幻覚というのは、ない。ここまで行けば、精神分裂病(旧称)の領域であるようだ。

 こういう患者は、幻覚と恐怖感がセットになっているものだが、薬によって恐怖感だけは解消できるものなのらしい(小木貞孝「他律幻覚と無律幻覚 薬物療法を通じてみた分裂病性幻覚」『幻覚の基礎と臨床』(医学書院))。あるいは精神病院の入院が長くなって、病気が慢性化した患者からも恐怖感が消失したように観察されることもあるらしい。

 私は視覚的な人間なので、幽霊をどうやって表象化するべきか、一時期の黒沢清があれこれと試行錯誤した気持ちがすごくわかるような気がするのである。怖いからかどうか知らないが、最近の黒沢はそういう方向への関心を放棄してしまったようで、『叫』の幽霊などは、まるで幽霊とは思えないような明朗闊達な幽霊であった。

 私の感触として、注釈が多いと「Jホラー」にならないようだ。注釈が増えると山田悠介的シチュエーションホラーになるのであろうと思っている。昭和の時代に育った人が、望んでいたはずの(平成の)無機質な生活にたいして違和感を感じているのが「Jホラー」であったとするならば、そもそも山田の世代は昭和を知らない……そういう風合いの違いを感じるのである。そして平成という時代は本当に能書きが多いよな、というのは、生まれてから十二年ほどを昭和の時代に過ごした者としての偽らざる感情である。

 事実と幻覚のあいだを「気分」が繋いでいるというべきか、急性の精神病というのは、要するに他人に患者当人の「気分」が見えないから、怖いのだろうなと思うのである。『CURE』や『回路』など、作り手がどういう気持ちで作っているか読めないから怖いという面があるのだが、実は作り手がどのように幽霊や恐怖を表現するかを試行錯誤するあまりに、感情の表現は二の次にまわされているのだと思って観ると、それほど怖くないという欠点がある。『叫』で、恐怖感が「慢性」の状態をむかえて緩和され、作り手が哀惜の感情を表現するようになったのは、ある意味当然の進歩であった。