つよのあとさき(1)

 地震の後で携帯電話がつながらない時間がしばらくあってから、貴美恵と幾与志は短信メールで連絡をとりあっていた時期があった。おなじ通信会社の端末ならば加入番号で短文のメールをやりとりするサービスがあって、貴美恵などはその存在をわすれたまま生活していたのだが、地震が起って、客を店から誘導し道路のほうに出してからしばらくして、スカートのポケットにあった携帯電話が着信してバイブになったのは感じていた。それが幾与志のメールであったことを知るのは、もうしばらく後のことだ。

 客たちはずいぶん長く続く本震と余震とにとまどいながら、道にしばらくたたずんでいた。その通りの両側は7、8階だてのビルが並んでいて、どれもがゆらゆらと揺れていて、客やほかのビルから逃げ出してきた人らは、ビルの倒壊や窓ガラスの破片の飛散についての懸念を口々に交わしていたが、なぜか倒壊するビルもなく、窓ガラスが粉々になって人々に降り注ぐということもなかった。がたがたがた、がたがたがた、という音をこんなに長く聞くということも、客たちにはそれまでなかった。

 貴美恵はガラスケースに入れる菓子の午後便が、まだ工場から届いていないことが気がかりになっていて、地震の発生に混乱した。これで、菓子を求める客が品切れに失望する、ということがなくなっていい、などと、あとになってみれば少々場違いな感想が浮かんだりもした。コーヒーメーカーは電気式で、ガス台を点けてもいなかったので火事の心配はもとからなかった。貴美恵は、客がなぜかみな、ひとりもテーブルの下にもぐらなかったことに気づいたが、コーヒーショップの小さなテーブルにはそれに隠れたところで防災能力など期待できないだろうということもあわせて思い浮かび、客たちの合理性に感心するような気分にもなった。あれこれ想念が浮かんでは消えるのに、まだ本震は収まらない。店長の希木田が客を店外へ出すことを決めて、いったん大声を出し、それが裏返ったので、希木田は仕切りなおして両手を口元によせて「ええ、みなさま、お客様、ただいまの地震の影響がございますので、大きいですので、どうかゆっくりとで結構ですので、どうか表のほうにおでになっていただけますでしょうか、すみません、地震ですので、すみません、おでになって、はい、気をつけて、気をつけて」店はごく狭く、一階のみで、十人以上入るともう満杯になってしまうようなものだったので、客の退避には時間がかからなかった。希木田は最後の客のあとを追っていったん店外に出て、通りの左右を見渡したりしたのだが、放心したような人々がみなビルの上階を見上げている情景の、彼も同じく情景の一部に溶け込んだだけであった。こんなに大きな地震は久しぶりだったので、希木田にはどうしていいのか判らなかった。希木田のそばに孤独そうな老人が通りかかって、「仙台が沈んじまったぁ」と、人に聞かせるのか、独り言なのか判別しがたい音量で、言葉を口にした。希木田には「仙台」が「沈む」ということが、心のなかで、とてもちぐはぐなことのように感じられて、しかもその不思議なショックがこのタイミングで投げかけられたことにも、呆然とたちすくむような気分を強いられた。

 展示のコーヒー豆のパックが床に落ちたのを、客がいなくなった店内で、貴美恵は拾っていた。店長の希木田が、道路の上からさかんに左右のビルを眺めているのが見えた。希木田はそばの老人と話をするようなそぶりをみせたが、老人は希木田を無視して駅のほうに向かったようだった。さかんに腰のバイブが動くのを感じながら、それは放置して、貴美恵は店内の片付けをしていた。そして余震が起った。せっかくもとに戻したコーヒー豆のパックは、また床に落とされてしまった。じつはこれは余震ではなく、茨城沖のほうを震源とした、さきほどのとは別の地震だったのだが、そんなことはこのときの貴美恵にはわかりはしない。表の希木田が戻ってきて、慌てて貴美恵に言った「おいおい、もういいよ、おもてに出よーぜ」。客にとっても、希木田にとっても、貴美恵にとっても、これらのことは数分の出来事のように感じられていたけれども、じつははじめの地震から、いまの「余震」のあいだには30分という時間が経過していたのだった。