『ヒノキオ HINOKIO』

 破壊屋ブログが面白かったので見てみたのだが、なんと親子(父と息子)の話であった。

 というよりも、見ていて思ったのは庵野秀明のことだ。庵野は『新世紀エヴァンゲリオン』で、父と息子の話をしようとしてうまく果たせずに終わり、巻き直しのはずの『ヱヴァンゲリヲン劇場版』の序と破では、かつて切実に抱いていたはずのモチーフをなかったことにしようとしている、ということをつらつら思った。

 ゲームの世界と現実がリンクしていて、そのことに説明がないというのが珍妙である。破壊屋は言及していないけれど、いとうせいこうの『ノーライフキング』が制作者の頭の中にあったのではないか。もちろん、ゲームの世界と現実がリンクしているというのは、劇中の小学生たちの空想にすぎないという解釈もありうる。ヒノキオが軍事用ロボットだという告発も、サトルを孤立させるためのウソだったのかもしれない。

 煉獄というのは天国と地獄の間の中間地帯で、主人公たちは煉獄という名のゲームをプレイすることで、罪の浄化を受けたわけだ。多部未華子が、浄化をすませて「ちゃんと」女子中学生の格好をして画面に出てくる。う〜ん、ここはどうだろう、と思った。物語の論理がキリスト教に負っているので、どうも見ていて、つくりもの感を感じてしまうのだ。

 あと、あの『コンタクト』なエンディングも不可解である。