20世紀後半以降の大衆小説の多くはテレビの写像

 ……なのだということは、わりと自信をもって言える気がする。

 なんと防人歌までが貴族の手になるものだったのだとすれば、古代の文芸は、貴族による社会の写像といってもいいのではないか。書き手による世界のミニチュア化が文芸であると。でなければ、身分をいつわって書くというということをしたがるわけがないと思うのである。

 それで、だとしたら西洋はどうなるのだろう。西暦の500年頃まではキリスト教はわりとあたらしい宗教として「西洋人」たちに感じられていたことだろうし、神話や民話が各集団のなかであれやこれやと渦巻いていたのではないか。

 神話が支配階級の自画像、あるいは祖先というものの写像で、民話が被支配階級にとってのそれら、ということなのではないか。支配階級は建築や彫刻のかたちで、みずからの「神話」を表現していくことで、それがゆっくりと下々に伝播していったのではないか。

 社会集団のなかで、人を秩序づける要素として、「こいつは進んでる、あいつは遅れている」というのは、わりと強力にある。それぞれの時代によって、いろんな分野が「都会的」だと看做されて、臨界にいたったら、どん、と消費されていく。近世のロシア貴族社会におけるフランス語熱とか、2000年前後の日本読書界における村上春樹熱とか。