純文学の季節(が、かつてあった……)

http://d.hatena.ne.jp/jun-jun1965/20110427

 小谷野さんがまだ純文学と大衆小説のことを繰り返しているが、その区別が明確にあったのは、大正から昭和末期のことと限定してしまったほうが良いのではないか。時期を決めずに日本には純文学と大衆小説の区別があるなどと言われても、それはやっぱり諾えません。

 スティーブン・キングなど、短編もたくさん書いているけれど、長編は長いし、くどいし、とても「大衆向け」とは思えません。テレビを楽しんで見ていて、かつテレビにあきたらない「高級大衆」とでも呼ぶべきアメリカ人たちが読んでいるのでしょう。テレビや映画にまったく触れない人で、キングを楽しめる人は、そうはいないはず。

 ここ半世紀でノーベル賞を受賞しているアメリカ人作家はスタインベックとソール・ベローとトニ・モリスンくらいで(国籍ということではアイザック・バシェヴィス・シンガーも)、いわゆる「アメリカの小説」にもノーベル賞は冷たい。アメリカ人の作家に高級か低級かといった区別そのものを笑う傾向があるからではないか。

 今の人は、昔に書かれた小説を、無条件に読んだりはしませんよ。「昔の小説だけど、面白い」という枠を、出版社があらたにはめて、現在の流行作家の推薦文をもらってくることで(あるいは表紙のイラストを流行マンガ家に描かせるとか)、今の読者ははじめてどれどれと手にとるのです。

 岸田への憎まれ口もやっぱり変で、右翼には思想がない、ということをさしたる根拠もなしに思っているのが、一般人の大多数なのではないのですか。