純文学と大衆文学の区別

http://d.hatena.ne.jp/kokada_jnet/20110504/p2

 純文学と大衆文学の区別の基準は、私の場合はほんとうにざっくりしていて、

「難しい単語を使っていれば純文学。そうでないものは大衆文学」

 というものしかない。

 鈴木貞美の本を読んだ以上、純文学という用語がせいぜい百年あるかどうかの歴史しか持たないことは、もう動かせない。

 では、小谷野さんの思い描くように、類としての純文学概念はどうかというと、私はそれは、作者が難しい概念の存在を顧慮して、その作品を書いているかどうかしか、「純文学」かそうでないかの区別の仕方はないと思う。

 いまふと思ったのだが、ここをつっこんで考えれば、もっと単純に表現できるかもしれない。つまり「作者の存在について考えたくなる」のが、類、つまりタイプとしての、純文学なのかもしれない。

 純文学に対するものは、大衆文学というよりも、民話とか神話とか、そういうものなのかもしれない。

 明治以前は仏教や儒教というものが、文学に影響し、明治以後は科学や社会学が文学に影響したわけである。

 ちょっとよりみち。

 純文学か大衆文学という区別を棚上げして考えれば、大江健三郎や、藤原新也は、回想を技法としてよく使いこなしている。私にとっての、よい文学のツボは、このあたりにありそうだ。大江は映画にたいする興味というのが、小説を駆動するモチーフとしてよく使われるし、藤原は作家であると同時に写真家である。

 映画かテレビか、作家がどちらに興味をもつか、ということはわりに面白いところで、大江にたいして、丸谷才一は放送や新聞に興味を抱いていて、私にしてみたら、大江と丸谷は好対照といいたいくらいである。大江にとってのマスコミは「俺の悪口を撒き散らす敵たち」でしかない。映画の自己創造的な編集を、大江は愛するのだ。

 さて、

 純文学が使う難しい語彙というのは、要するに漢字をあれこれ組み合わせた熟語のことで、これをある程度以上に駆使していれば、内容のいかんにかかわらず、純文学でいいと思う。

 英語やその他の横文字言葉は、漢字のかわりに、つづりの長い語を好んで多用すれば、それがその言語にとっての純文学なのではないか。私はざっと眺めたことしかないが、ジョイスの『ユリシーズ』の原書は、まあものすごいことになっているわけだ。ネイティブの人間だって、気軽に読みこなせるものではない。それをする意味もないし。

 私は村上春樹の『1Q84』をわりと楽しんで読んだが、BOOK3の途中で飽きてしまった。『アフターダーク』はものすごくのめりこんで読んだが、『海辺のカフカ』はさして楽しめず早々に投げ出してしまった。村上春樹の小説にテーマがないというのは、それは当たらないと思うし、村上春樹が純文学かどうかという設問には、私の基準で答えると、純文学ではない、ということになる。とはいえ、村上の関心の主要な部分を占めるのが、「宗教用語を使わないで宗教について考える」ことであるのが、誰の目にもわりと明らかになっている以上、純文学に近いとはいっていいと思う。

 蓮實重彦村上春樹を嫌うというのも、わりとわかりやすい話で、村上の小説の主人公が、戦後的なやりかたで生活を立ててきた典型的な「非エリート」であるからだ。日本映画全盛期に渡仏してヌーベルバーグの勃興期に際会した旧式のエリートにとって、日本映画斜陽期に成人してアメリカンニューシネマをこよなく愛する村上的な主人公など唾棄すべき存在でしかない。ヌーベルバーグはそれを案外にという副詞を冠するには気恥ずかしくなるほどじっさいは貴族的なものだし、いわゆるアメリカンニューシネマというアメリカ人がまったく知らない語彙によって日本人に記憶される映画群は野蛮なまでに無垢な実存主義が横溢する空間である。

 わたくし小説というものには、私はその、文章のハイファイ性とでも呼ぶべき明瞭さや詳細さには注目するけれども、それ以上の格別な興味というものはない。もちろんわたくし小説でも、語彙の難解なもの、たとえば藤枝静男のわたくし小説などはあきらかに純文学である。

 くりかえしになるけれども、難解な語彙が作品中に大きな割合を占めていれば、内容にかかわらず純文学である。