菊池寛と詩

 小谷野さんに示唆されて、菊池寛についての丸谷才一の文章を読んだのだが、これがあまり良くない。まさに通俗な文章というものの見本のようなもので、菊池寛とHGウェルズを並べるという発想の、見かけの奇妙さによりかかったものでしかない。
 さて、この文章で、菊池寛が詩をわからないとしたことを菊池の欠点として丸谷は紹介しているのだが、これは果たしてそうであろうか。私は、かえって、詩を許せなかった菊池寛の感性がよくわかる気がする。私自身は、けっして詩を許せなかったりバカにしたりはしないが、しかしみずからすすんで親しもうともしない。要するに敬遠しているのである。
「不可能と可能との限界のわからない人」の頭の中にだけ詩が残っている、という菊池寛の述懐は、いまの私には、ものすごく説得的に感じられるのである。外部に対象のある、あるいはかつてあった言葉だけを、組み合わせて創作していこうという考えがあったのではないか。菊池が映画に関心をしめしたのも、うなずける話である。
 丸谷の考え方、つまり作家は自分や他人のために本を書くのではなく、自分が属する共同体のために書く、というのは、これには私は異論があって、前段には賛成だが、後段には反対なのである。文章を書くというのは、個人が自他不分明の境地に赴くこと、それを愉しむことに意義があるのではないだろうか。それこそ、菊池流に私は丸谷にたいして「共同体」という言葉の対象を明瞭に示せ、と迫ってみたいような気になるのである。
 丸谷の「古代の詩人」というのが、ギリシャのそれか中国のそれかはたまた日本の万葉詩人をさすのかわからないが、かれらは仲間たちにというよりは、それこそ神にたいして詩を綴ったと思うのである。神官の言葉よりかは、詩人の言葉のほうが人間味が増していたであろうけれども。