子供をさらうということ

 すこし前に観た攻殻機動隊の劇場版アニメは、虐待児童を政府の闇機関が勝手にさらって、子供を必要とする老人たちに再配布してしまうという、ある意味とんでもないお話で、しかし私なんかは、これは結構なことじゃないかと思ったほうである。映画も、闇機関の動機に観客を感情移入させないでもないような微妙な演出をしていた。

 『八日目の蝉』の永作にも、その誘拐は当然だよなあ、赤ん坊のこして夫婦で買い物かなんかに車で行ってしまうようなやつらの子供なんて誘拐してあたりまえだわ、などと私は思ってしまう。いいぞ、いいぞって。

 私はこの映画で森口瑤子が演じたキャラクターがけっこう好きで、彼女の役を、私なりの言葉で表現すると、主役の器がないのに主役になりたがる女、ということになる。こういう悲劇というか、喜劇というか、ある種のミスマッチングは、観客である私に、じめじめとした、冥い笑みをもたらすのだ。

 永作博美が逃げこんだカルト集団もまた、ようするに人さらいであって、教祖が善意から信者を指導しているようでいて、しかし信者を道具としてしかみていないことを、永作は敏感に感じ取ってカルト集団からも逃げてしまう。

 家族というものが、原初のカルトなのである。あらゆる家族には、集団には、国家には、かれらがかれらであることの科学的な根拠がない。すべては幻想、思い込みでしかない、そしてその真実につきあたったときに、人はその身体の重さをもてあますのである。

 その身体が突然、消える。ここに失踪や誘拐にまつわるロマンがあるのである。人は道具なのか、目的なのか。道具なら、それがある日とつぜん消えることがあったって、そんなの、べつに、いいじゃない。目的ならば、その人が生きようが死のうが、関係ないよ。魂は永遠に存在するのだから。

 『八日目の蝉』に自殺者が登場しない、というのは、そういえばなんだか物足りないというか、偽善的であると感じる。こういう話柄をあつかっていて、自殺がでてこないなんて。小池栄子の手首が傷だらけとか、そういう描写があっていいと思うのだけれども。