読書体験そのほか

http://twitter.com/#!/Rosmersholm1886/status/71205446542827520

 小谷野さんとツイッターでやりとりしているロスメルスホルムさんの関心領域が面白い。

 非インテリ階級の意外な愛読書、あるいはインテリ階級の、意外でしかもちょっと外聞が悪いかもしれない知識の抜けなどに、ロスメルスホルムさんは関心があるようだ。

 ロスさんが紹介する工場労働者が小林信彦を読んでるケースなんて、私などにしたら普通だろとしか思えなくて、それはつまりたまたま手にとったなにかの小林著が気に入って、何冊も読むようになったのだろう、と思う。

 工場とかレストランなどの職員用の休憩室には、買った人が読み終わったマンガや小説がしばしば放置されて、みんなが読みまわす文庫のような役割を果たす。

 いまどきは、とくにオタクでない人でも気に入ったマンガや小説の作家の既刊本をブックオフなどであさることなどあるだろう。ネット検索を駆使して書誌までつくるようになったら立派な「インテリ」だと思うが。

 私はなかなかそういう気分にならないのだが、多くの人にとって「本は読んだら捨てるもの」であるようだ。実際、ゴミ捨て場で縛られたハードカバー判をしばしば見かけるのである。もちろんそういう本の大部分は、娯楽小説なのだろう。私が映画DVDを見終わったらショップに返しに行くこととなにも変わらないのかもしれない。

 私は、少し前まで「雑誌は捨てるもの」派だったが、最近は「雑誌はあまり買わず、そして買った雑誌は捨てずに保存する」派に転向しつつある。所有しつづけるか、所有を放棄するかの基準は、自分のなかではいつも揺れている。

 古本屋で、気まぐれから『学生と練成』昭和19年1月号を買って、手元に置いて、ときどき眺めている。執筆者のなかで知った名前は上林暁くらいしかいない。もちろん、これが1944年の一般的な日本の気分をパッケージしたものであるなどと思って読んでいるわけではないが、まあ参考にはなると思っているのである。

 最近強く思うのは、「何も残りはしないのだなあ」ということである。もちろん本やフィルムは残るのだが、いわゆる魂的なもの、気分、情念、そういうものは、文章や表現にすることができるような気がするだけで、気分のもの以上ではないのだということだ。黒澤明の量産期のころの映画なども、黒澤なのだからわかりやすく作っているのだが、それでもだんだんどういう気でこういう表現をしているのか、わからなくなる瞬間がある。時代が遠ざかるというのは、こういうことなのだろう。

 人が本を読んで教養を積み、知識人の仲間に入って、文化と文明を発達させるということが、そもそもフィクションであって、この場合のフィクションというのは、やけくそ気味の人間が口走るまったくの嘘というような意味とは少々違うのであって、まさに仮構、とりあえずはじめた運動、身体の扱い方の傾向にすぎないわけだ。どんな文章をつづるか、どんな言葉を採用して、いかなる順番で配列するかは、脳という臓器の訓練具合にかかっているわけだ。