資本主義のムムム

 kokadaさんが安藤健二の本をツイッターで紹介していて、アマゾンなど覗いて内容について調べていたら、kokadaさんが安藤著のほかの作品をレビューに書いていて、そのほかのレビューについても、つい読みふけってしまった。タイタニック細野晴臣の祖父については、以前kokadaさんから教わっていたので、安藤の『封印されたミッキーマウス』を予約した(図書館)次第。

 安藤の新著(数ヶ月前のものだが)の内容は、パチンコ業界とアニメ業界に関するもので、どうもふたつの業界とも外から思われているようには景気の良いものではなく、青息吐息の状態で、それがたまたま双方の思惑が合致して、あまりアニメに関心のないパチンコ利用者のことなどおかまいなしに、アニメがパチンコに移植されているのだそうだ。

 資本主義が怪しいなあーと思うのは、企業の存続のために業務についての秘密が許されていることで、それがあるから、企業の外にいる若者たちは、企業の業績だけを見て、その企業に入社することを希望したりする。安藤ルポの醍醐味として、ファンたちは、安藤がぶちあたる取材拒否の壁について取り上げたりするわけだが、しかし、そういうことはあたりまえのことではないかと思うのだ。資本主義というのは、元手をもった少数者と、元手をもたない(しかし責任もない)多数者が、ある財物をめぐって関係をむすびあうだけのことだ。企業が、いちルポライターなどに、「いやあ、私たちの会社、最近業績悪くてですね〜」などと、正直なことを明かすものか、というのである。

 報道というのも、資本主義とおなじく、なんだか怪しい近代の思想のひとつではある。かれら報道人たちが生産するのは、現象的には、たんなるもの(グッズ)でしかない。新聞紙とか書籍とか。書き手は客観的に現象を記述している、という建前になっている。特定の勢力や、宗教などには肩入れしないことになっている。しかし、そんなの本当だろうか、と思うのである。実際には、マスコミは企業ごとに産業のそれぞれの系列に取り込まれてしまっているらしいのだが、そういうことは、私はあまり関心がなくて、彼らの依拠する建前がそもそも怪しいのだから、本音に相当する実態部分があやしいことなど、わりとどうでもいいのである。客観的であることをいいつのる人間の言葉が、どんどん主観的なものになっていくことに、だれだって気づいていると思うのだ。それに気づくためにこの半世紀以上にわたる平和が存在したのだもの。

 旧政権党が営々と築いた集金システムを選挙一発でうまうまとかすめとり、これから贅沢をつくそうと考えていた現政権党に、皮肉といえばこれほどの皮肉はないであろう、そういうような東日本大震災の存在であった。

 日垣隆町山智浩ツイッター上でのやりとりを、眺めていて、日垣が町山が周囲に使嗾したと日垣が認識していることを精神障害者にたいする差別だと非難していたのを読んで、そういえば差別がいけないのって、体制側の論理だったのに、なんだか不思議な観念に流浪してしまったのだったな、と思った。

 つまり、同じ日本人(大日本帝国臣民)であるのであれば、出身や門地や病歴などで差別されることがあってはならない、という建前から、差別はよくないという話ができたはずなのだ。

 戦争に負けてから、敗北を直視したくない日本人は、天皇に代わる理論神を、客観性かなにかにもとめて、客観性に合致しないから差別はよくない、と定義を書き換えたのだ。

 kokadaさんが平岡正明の本について、平岡が中共文革をいまだに賞賛するなど、その思想の硬直性を非難していたが、しかし、思想にはもともとそういった頑迷性というか、客観的事実からの自由性というものがあるのだ。それがなければ、思想というよりかは、他人のつくった公式見解の受け売りでしかないであろう。

 思想における神の代替物を探して、ニヒリズムから逃れるために、西洋人は実存主義に走って、選択こそが人間が人間である証だと看破した。それ以外はすべて機械的過程にすぎない。自然には決断だけが存在しない。しかし、構造主義ポスト構造主義は、選択もまた偶然の寄せ集めにすぎないことを説きはじめる。人間には生きる意味がないことを論証することが最上の生きる意味へと転化してしまった人間の不幸がここにある。