血筋

 血筋というのはどうしてもあって、私にも、自分の嫌な傾向を、親類によってそっくりそのまま私の目の前で振舞われた経験があって、唖然としたというか、なかば蒼白になったことがある。

 私が『ドグラ・マグラ』に異様に感動した理由の一端は、ここらへんにもありそうだ。姿形が似ているのは、日頃目にしているから気にならないが、喜怒哀楽のスイッチが同じだったりするのが、なんとも嫌なのである。

 なぜ蒼白になったかというと、つまり、私の親が、そういう傾向を押さえつけて生きてきたことを、そのとき卒然と悟ったからである。あんまりいうべきではないのかも知れないが、私は私の無意識と直面するのが恐ろしくて、ようよう他人と同棲することなどには踏切れないのである。

 いま某とやりあっている5刷のほうも、要するに私は同情しているのだが、これはまあ、彼をからかっている人たちにも手加減をお願いしたいのだが、「そういう言葉しか話せない」ままで生きて死ぬしかない人間など、いくらもいるのである。言葉というのは、ニュートラルな状態のまま学校で習って、そのまま実社会で運用できるようなものでは、ない。キミたちが、そういうサイトをみつけて安住したように、彼もまた安住の地を見つけ、垣根を築き上げたのである。パレスチナ人の迷惑をかえりみないイスラエルのようなものか。

 血はいつも流れつづける。