『横しぐれ』をあわてて読む

http://d.hatena.ne.jp/jun-jun1965/20110620

小谷野さんは「219.165.2.253」氏本人説であるようだが、私はいまいち疑問が残る。


さて、『横しぐれ』である。もしかしたら長編ではなく中編かもしれなくて、だから二重鍵括弧はまちがいかもしれないが、いちおうこの題で単行本も文庫版もかつて出たようである。


もちろんムイミさんの指摘に背筋がのびてあわてて読んだ次第なのである。


中世の詩歌を研究する大学教授が亡父のありし日のエピソードにのめり込む。父は四国で最晩年の山頭火と会話したかもしれないのだ。おりからの山頭火ブームの助けもあって、主人公の「わたし」は、陸続きに出版される山頭火本を渉猟しながら、文献のレヴェルで父が山頭火と出会っていた証拠を見つけようとするのだが。以上があらすじ。


出版界の山頭火ブームの描写がどこまで現実に即しているかまったくわからないのだが、昭和32年に筑摩の「現代日本文学全集」91巻『現代俳句集』に紹介され、昭和42年に新聞記事、永六輔の深夜ラジオ、「「少年マガジン」に劇画が載つて」ブレイクした、と小説にある。


私が子供だった1980年代にもいぜん山頭火ブームは続いていた記憶があるが、その源流はこういう感じであったのかとちょっと勉強になった。少年マガジン山頭火伝なんて、ちょっと信じがたいが、とはいえ、あったかもしれない。しかし、虚構もするりと入り込んでいるかもしれないのだ。ありえなさそうなことが、実はあったのかもしれない。いや、そういう憶断こそが、誤りなのかもしれない。秘密とウソと創作…。


私はもとから日本文学に暗くて、興味もないので、丸谷の『後鳥羽院』も読んでいないし、「横しぐれ」という言葉が美しくて、しかし日本の詩人たちがこの言葉を縦横には使いこなせずにいたなどと教わっても、はあ、そうなんですか、と、しまらない挨拶をかえすことしかできない。


私が読んだのは新潮現代文学63の版で、この巻の解説者は磯田光一で、さかんに小説の主人公と実在の作者の不一致について説くのだが、私が笑ってしまったのは、磯田の解説の後にある丸谷の年譜のはじめに、開業医の次男として生まれたという情報が記されていたことで、これはそのまま『横しぐれ』の主人公の境遇なのである。


本当はいけないことだが、目を通すことを優先してかなりスピードを出して読んでしまったので、いろいろ見落としているかもしれないが、要するに丸谷がこの小説でやっていることは「死のレンダリング」なのである。作中で主人公とその友人の詩人が会話しながら、「しくれ」を「死暮れ」そして「横死」、というふうに表記を転がしていくシーンがあるのだが、編中でも父の死、その友人の黒川の死、考証における山頭火の死、仮想における友人の死などが描かれていき、そして最後に主人公が想像もしなかった人物の死について、かれは知らされることになる。さらにその奥に背景として広がるのは、大東亜戦争ないし太平洋戦争の膨大な死者たちである(丸谷は戦争とだけ書いて、地の文では大東亜戦争とも太平洋戦争とも表記しない)。


ちょっと不審なのが主人公の設定についてで、彼は昭和28年には大学助手になっていて、昭和14年に13歳だったということだから、数えか満年齢かわからないので、彼は大正15年・昭和元年か2年の生まれということになる。小説の現在時、あるいは最終章である「13」の時間は、前の日に「国文科の学生に吊るし上げられ」た11月のある日の午後から夜にかけてなのだが、これは昭和45年のことなのだろうか。これより前の章で主人公と詩人は三島事件について触れるから、昭和44年以前であることはない。しかし、46年以降のことであったとするなら(小説の発表は昭和49年)、リアリティに問題がありはしないか。主人公が奉職するのは、高い確率で東大なのだ(学生運動が下火になったあとでも多少の騒動はあったかもしれないが)。そして、この章ではじめて登場する八木沼老人は主人公のことを「そろそろ五十」と表現するのだ。小説執筆時における近過去のあしらいに混乱がみられる。


八木沼に意外な事実を告げられて、主人公の内面で回想や追想が奔流しはじめるあたりは、著者おとくいのジョイス調で楽しい。


小谷野さんにひきよせたことをいうと、主人公の友人は「数年前、『横雲の空』といふ藤原定家論を出したことでも判るやうに、中世和歌に関心があつて、近頃はむしろそつちのほうで有名かもしれない。この定家論は、われわれの立場から言へば独断と偏見と仮説の連続で、それに何よりも基礎的な知識の乏しいのが困るけれど、ところどころじつに鋭い感覚があつて、詩人や小説家の本としては上出来のものだつた」(355ページ)と紹介されていて、ようするに丸谷自身がモデルなのである。これを読んで私ははっとした。小谷野さんが丸谷の評論を「児戯に等しい」と切り捨てて、武藤康史が疑念を呈し、小谷野さんが再説したあのいきさつを、丸谷は自分で予言していたのだった。