『1900年』を見た。

地主の孫と、小作人頭の孫の友情と葛藤を描く作品で、地主の使用人からファシスト党に入った男が社会の変化をかれらの地域に呼び込む。このファシストを演じたドナルド・サザーランドが物語を推進する触媒となっているわけだ。第一次大戦や第二次大戦の描写は大胆に省略される。


無効になった権力を維持するためには脅迫と暴力しかないというのは万国共通の原理なのだなあということをつらつら思いながら見た。


いま恫喝する人の映像をみたばっかだし、特にそう思うのである。


私がこの映画をみながら想起するのはなぜか日本のことなのである。要するに左翼勢力というのはなんとかその地位を残しえたが、新左翼は根付かなかった。旧左翼も暴力路線を取り下げることで大衆から許容されたのである。この映画のエンディング近くに、共産党の中央からきた使いが、小作人頭の孫たちが蜂起して奪取した武器を引き取りにくるエピソードがある。私は、平和の実相とか平和の実態という表現を好んで頻繁にもちいるのだが、日本などは、さしずめ敗戦の日から1960年くらいまで、岸の「声なき声」発言あたりまでが、平和と混乱が入り乱れた「沸騰期」で、それ以後は社会が「冷温停止」にむかっていく不可逆的なプロセスでしかないのだと思っている。この日本の平和の実態とはそういう程度のものに過ぎなかった。


原子炉を冷却するためにホウ素を注入するように、大衆を冷却するためにかれらの可処分所得を増大させ、一戸建てを買わせ、テレビを買わせ、塾に通わせ、大学に通わせ、リゾートを開発させ、その他その他の幻影に惑わさせていたのである。


平和とか長幼の序という「秩序」は、本質的に怠惰と硬直化をもたらすシステムでしかなくて、平和と死は切り離せないものなのである。


権力機構があらかた完成したら、権力は実績をもとめるわけで、それが1960年以降の高度経済成長と、それが終わったあとの箱物行政、そしてバブル崩壊以後の片々たる個人の自由主義を鼓舞する小泉政治と、環境クライシスをあおる疑似科学的政治なのだった。