割れた鏡

連続殺人事件の起こる街に、かつて起きた凄惨な監禁事件の被害者が住んでいた。現在の事件は、この被害者がかつてのトラウマに突き動かされて起こしたものであるのか否か。というお話。


とはいえ、映画の主眼は主人公の内面を丁寧に描くことにあるので、事件そのものの描写はそっけないし、真犯人が誰であるかの謎解きも、中盤でたいていの観客が気づくようにできている。ミステリー映画というよりも、変化球の青春映画である。


まったくの偶然だが、私はレンタルショップで『ゲゲゲの女房』とあわせて借りてきたので、『ゲゲゲの女房』の監督が、こちらでは重要な役柄の俳優として画面にでてきたときには驚いた。


映画の中盤までは、映画の語りは、主人公(染谷将太)が殺人事件の犯人であるかのように観客をミスリーディングしている筈だと思うのだが、これはうまくいっていない。主人公が拘泥する女子(大政絢)が、封印していた写真を見てしまうことで、主人公にたいする思慕が間違いであったことに気づくシーンから、彼女がこの物語の主人公である資格を決定的に失い、じつはこの映画は、男が女を愛することの不確かさ、空ろさ、言ってしまえば嘘くささ、を男自身がじっくりと内省して、その過程をへたうえで、なおも女を愛するのだと決意する「イニシエーションの物語」であったことが、観客に明かされる。


こういう、男の内面にまつわる映画を、女の監督が撮るというのが興味深いし、また、いかにも現代だなと思うのだ。あるいは、前半は大政絢が魅力的に描かれていて、後半は田畑智子鈴木京香染谷将太を見守っているあたりは、ストレートに「女の映画」である。


これは個人的な感覚にすぎないかもしれないが、まったく知らない女優である大政絢を眺めていて、なんとなく柴崎コウを連想していたのだが、編中でいくどか流れる「ルージュの伝言」のカバーを歌っているのが柴崎なのだった。歌声を聴いたから柴崎のことを連想したのか、大政の顔から柴崎を連想したのが先か、もうわからない。心の不思議というか、記憶の不思議である。


劇中で、混乱したまーちゃん(大政)が洗面台の鏡を割るシーンで思ったのだが、映画というのは適度な破壊を楽しむものなのだなあ、ということ。学生映画でも鏡を割るシーンを撮ることがあるかもしれないが、お金や後片付けのことを考えたら、ちょっと二の足を踏むものである。商業映画ってこういうことだよね、と割れた鏡を見ていて思ったのである。そう思っていたら、その割れた鏡が、後半でまた一瞬だけ再登場していて、なぜだか、ちょっと可笑しかったのであった。