主語と述語のリンクが外れるとき

五刷の人の話。そういえば彼は「『…やっぱり紙の…』は5刷になっている」とは言っていないはず。彼は読み手に文脈上での主語を探させる類の論法を好んでいる様子だ。ようするに省略がいちじるしいのだ。


敵は自分(五刷の人)を嫉妬している→(返答)新刊がアマゾンで売れてない人に嫉妬はしない→(返答に返答)アマゾンでは売れなくてもほかで売れる本もある(補強として)だからこその五刷である、…こういう流れだったわけだ。五刷の人にとっていちばん重要であることは、敵は自分を嫉妬している(念を押しておくが、これは内面にかかわる問題である)ということの「事実性」なのである!


人の話を聞いていて、あやしいなと思ったときは、たいてい「それは○○が××したということですか」と、私は聞き返す。とはいえ、目上の人間にたいしてこれをやるのは難しい。


人が話題の対象を主語として表現するのを省略するときには、話し手の対象にたいする感情が伺われるから興味深い。話し手、書き手の感情のピークポイントが、こういうところで表現される。


わたしはポストモダニストに宗旨替えしつつあるので、事実というものが、それを人間があつかうときに、なぜこうも願望という事実とは別のものに似てしまうのだろう、ということに深い関心をよせているのだ。