『死ね!死ね!シネマ』



現実との妥協を映画ファンから嗤われ、さらには表現の不徹底を信者の女子高生からなじられた映画監督が、屈辱と悔恨の苦しみから発狂して、自ら連続暴行殺人の犯人に変貌し、またその様子を自分で撮影する。究極の衝撃映像をものしたわけである。かれは自殺を図るも死にきれず(自死の様子も映像に収めようとした)精神病院に収容される。


そして物語は映画監督を非難したさきほどの信者の話に移る。今度は彼女が映画監督になるのである(数年後)。彼女には向かい風の現実に妥協する気など一切ない。自分のヴィジョンを現実化するために、スタッフを無給でこきつかい(強欲なのではなく単に映画学生で金がないからなのだが)、意に染まぬ演技しか見せられない俳優に平然とびんたをくらわす。逃亡する役者を追いかけてなだめることさえせず、彼女の役は自分が引き継ぐ、二人一役だと平然と言い放ってスタッフを呆れさせる。あまりにも苛烈な映画原理主義に音をあげて、俳優の一人が彼女に襲いかかるも返り討ちにあい、殺される。ここで突発事が生じる。この殺された学生俳優が幽霊になったのである。彼女は驚き、そして魅了される。彼女のヴィジョンを越えた存在である幽霊をどうしても自分の作品に取り込みたい。彼女のとるべき行動はただひとつ、スタッフ学生を殺して幽霊として自らの映像に収めることだったのだ……。


物語は第三の人物を主人公に召喚する。同僚学生を殺して逃げた映画監督の友人である。正反合というか、矛盾を解決する止揚というか、物語の真の主人公は、語り手にすぎないと観客に思われていた彼女だったのである。二人の映画監督からそれぞれの自作を託された彼女は、その映像を編集し、ネットに流す。映画はつくることで完結するのではなく、観客に見せることで完結するのである。いや、完結してしまうのではない。映画を観たことで人々が反応をおこし、その反応をまた映画にとりこまなくてはならないのだ。映画には未完が宿命づけられている。彼女がネットに流した「作品」は、観ると呪われ、「観客」たちは幽霊の群れに襲われたり、自分の目をカッターで突いてしまいたくなったりするのである。どちらも、その衝撃を実体験し、トラウマとして自らの心に宿したそれぞれの「映画監督」の「表現」がなせる業であった。


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本作は、庵野秀明が1997年に『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に』の実写パートでやりかかったことの全面展開バージョンといえるかもしれない。映画論映画は無数にあっても、映画論を商業映画のフォーマットで行ったものは数少ない。山田洋次の『キネマの天地』や中田秀夫の『ラストシーン』のように、女優論や撮影所論に変形するならば、これはわりとある。本作が特異なのは、自主映画のままで、商業映画のフォーマットに極力のっとりつつ、商業映画と化そうと目論んだことである。ロボットアニメ、美少女アニメのフォーマットに自己主張を紛れ込ませようと考えた1997年の庵野秀明の事情と思想が、本作ではちょうど地と図を反転したような形で実現しているのだ。