純粋殺人?

小谷野さんの「殺人を犯す素質」というものがよくわからない。(たとえばhttp://twitter.com/#!/tonton1965/status/100374297142497280


エド・ゲインにしろジェフリー・ダーマーにしろ、偏った生育環境と、生まれつきの反社会性、嗜虐性、粗暴性が渾然一体となって彼らの犯罪が行われた様子で、生まれつきの殺人者というものは、いないのではないかというのが私の感触だ。なにしろ人間は無力な状態で生まれてくるのだから、他人の人権の完全な抹消という純粋な意味での殺人観念などは、よほどのことがないかぎり浮かばないのではないか。


もちろん、「生まれつきの粗暴性」とか「生まれつきの反社会性」というのは、わりにあるであろう。暴行犯とか窃盗犯とかは、殺人犯よりも歴然と多いのである。しかし、殺人は、被害者が名乗れないし告発もできない点で、暴行や窃盗の犯罪とは違うものになる。


殺人の罪に問われたものが、傷害致死心神喪失の理由をあげることで殺人罪をまぬかれようとすることが起る、らしい。殺そうとして殺したことと、そのつもりはなくても結果として人を死なせたこととの間に線を引きたいのが人情というやつなのである。


医療過誤による死を殺人であるとして遺族が医者を告発する例があるが、これは、さきほどのとはまた別種の「人情」のよってしからしむるところなんだろうなと思う。しかしそういう思いは、私の貧弱な蓋然性によりかかったもので、サディスト医師がまったく存在しないという保証もないのだ。いやはや面倒くさい。


小谷野さんの思考は、社会にはおしなべて反社会的な行為を抑えこみ、社会的な行為を伸張させる傾向があることを、故意に無視しているように感じるのである。多くの殺人者は、社会から忌避されたり放置されたりしてより重大な犯罪に手を染めていったもののようである。


私は前から言うように完全監視社会賛成論者で、消極的な死刑反対論者だが、これは前も言ったかもしれないが、国民に死刑の様子を見ることを強制するのならば死刑に賛成してもいいのである。たしか小谷野さんも観たはずの『チェンジリング』のあれである。小谷野さんは自分が死刑を執行してもいいと言っていたが、私は、小谷野さんには死刑を見続けてほしいと思うのである。見ていられないものは、他人にも押しつけるべきではないだろう。