民間殺人と公共殺人

公共殺人というのは、要するに死刑のことだ。つらつら考えていたが、やはり純粋な殺人というものは死刑以外にはないのではないだろうか。日常的には「殺人」と「死刑」は別物だと考えられているが、しかし、いわゆる殺人というのは、一般人が犯し、政治権力に裁かれる殺人というのは、しばしば夾雑物にまみれた「不純な殺人」になりさがってしまう。暴行の果ての殺人とか、詐欺の果ての殺人(保険金殺人など)とか。こういう場合は、まずは暴行や詐欺を取り締まるべきではないだろうか。


再三繰り返すが、「殺人の素質」というのは、非現実的な観念のように思われる。他人に暴力をふるう素質や、平気で嘘をつく素質というものは現実にあるだろう。しかし、殺人はなにがしかの手続きを他人と交わすこと(これを平たく表現すれば、動機、ということになる)を必要とする悪徳であるだろう。そういうシチュエーションに「素質」の影響力は副次的にしか働かない。小谷野さんは、「他人になれなれしく高圧的な性格は素質だから仕方ない」として渡辺秀樹を免責できるだろうか。殺人犯などよりも、こういう素質のほうが現実的なのだが。


民間人による純粋殺人として私が思いつくのは、アルミン・マイヴェス事件くらいである。マイヴェスは被害者の同意の上で被害者を殺害した。被害者の肉を喰ってもいるが、許可を得た上でのことなので「食人鬼」とも呼びづらい(まあでも、そう呼んでしまうが)。これは(被害者の主観からしたら)暴行ではないので、彼はまさに殺人のみを(国家の法に対して)犯しているのだ。


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ふと思いついたので書き付けておくと、違った方向に屁理屈を展開してみたいのだが、現行の日本の憲法下でも、自衛隊が侵略勢力に応戦して(国際紛争であると認知しなければいいのだ)死人が出ても、これは殺人ではない、と言って言えないことはないのだ。つまり、傷害致死であると。