『A3』

私たちオウムの外部の人間は、一般的には、オウム真理教事件を、あの教団が順次凶悪・強大化していくプロセスとして把握しているが、しかし、内部の幹部信者、たとえば中川智正などの見方からすれば、これはまったく正反対で、オウムが宗教の組織として、自らが働きかける組織外の対象を、世界、日本(参議院選挙)(シャンバラ化計画というのがあったなあ…)、葛飾区(ボツリヌス菌散布)、松本市、地下鉄の車輛、…と、順次せばめていくという、いわば無力化のプロセスでしかなかったというのである。この見方は面白い。


私は、著者が言うように、日本がオウム事件によって変質したとはあまり思っていなくて、著者は1970年代後半に成人して、20年ほどを好景気のなかで(本人の経済状況はともかく)暮らしていたから、とくに「変質した」と感じられるだけなのではないか、と思っている。


変質したのは、日本の豊かさのありようという、わりと狭い領域の話でしかないだろうと、私は思っているのだ。物質文明のデジタル化への移行は、豊かな階級ほど、その豊かさの変化の度合いを著しくするであろうからだ。貧乏人は、一生twitterYouTubeで暇をつぶしててくれよ。メッセージ機能を暴動に利用するんじゃないぜ、というわけ。


著者は、麻原を視聴者、腹心幹部連中をメディアになぞらえて、オウム真理教を日本のメディア状況に重ねあわせる。この見立てはとても興味深い。要するに船頭多くしての類を、まずオウム真理教がやらかし、彼らを追って日本社会自体もいまやオウムのような暴走と自滅を演じつつあるのではないか、というわけだ。

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