『コクリコ坂から』

かなり感動した。こういう映画が出現する世界の妙、時の流れの不思議さ、を強く感じた。


政治というのが、舞台劇、もっと言ってしまえば、歌合戦のようなもの、という駿翁の認識はもっともである。この作品の時代設定である昭和38年頃には、大島渚(そういえばこの人の息子も映画監督をやっている)の『日本の夜と霧』は、名画座でかかっていたりしていたのではないか。人々の、時代への失望が顕在化する直前の、ある日本のひとときを、翁はある種のファンタジーとして観客に提案し、宮崎ジュニアもこれを楽しんで映像化し、観客に提示している。


比較対象として、押井守の『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』と、村上龍の『69』を、私は想起した。後者の映画化を私は観ていない。いま私は、なんというか、宮崎による後だしジャンケンというのもおかしいが、不思議な時代感覚にとらわれている。『コクリコ坂から』の登場によって、私のなかのアニメ史、児童小説史のパースペクティブが一変してしまったようなのだ。なぜ、押井や村上の世代は、「歌合戦」を捨ててしまったのだろう……。


(そういえば村上は『コックサッカー・ブルース』で、主人公にナウシカのビデオを与えて、それを子守りとして利用させていたっけ。家庭内でのアニメ視聴に宮崎翁が批判的なのは有名な話だ)


宮崎翁は、「子供が自分の仕事を継ぐこと」の意味を、こういう形で出してきた。正直、舌を巻いてしまう。戦後60余年、猖獗をきわめた個人主義自己実現思想が守勢にまわる時代が来たようである。物語の豊かさと、家族というものの関係を思うのである。


理事長のトクマルは、徳間康快がモデルか。私も敬愛するディオゲネスが言及されているのも、良かった。