『監督失格』

どうせソフト化されてレンタル店で借りられるだろうから、劇場まで行かなくてもいいか、などと思っていたのだが、矢野顕子が音楽を担当するときいて、そのミスマッチな感じがおもしろくて、それからは公開を待ち遠しくおもっていたのである。


私は1976年、昭和51年の生まれで、1980年代の自主映画ブームには完全に乗り遅れた人間である。やっと1989年に、TBSの深夜番組で、三宅裕司が自主映画のゴングショー(えびぞり巨匠天国、略してエビ天)を司会しているのを見て、こういうのって面白いなあ! とわくわくしたのである。


だから、アダルトビデオを見始めるのも遅くて、やっと1993年かそこらからである。自主映画のスター監督である平野勝之が、アダルトビデオの世界で活躍して話題になっていることなど、知りもしなかったのである。『由美香』の劇場公開にすら乗り遅れて、東中野で観たのは『流れ者図鑑』からであった。


なにやらよけいな文章を二段落も書いてしまったが、この『監督失格』には、平野が『由美香』を撮るにいたるまでの前史が、必要最小限にまで切り詰められているので、ちょっと補足したしだいである。ようするに余裕があった時代の豊かな空気を、当時平野青年はぞんぶんに呼吸していて、アダルトビデオ業界に進む時にも、表現上の気負いや不安はあったとしても、賎業につく後ろめたさはなかったか、あるいは薄かったろうと思うのである。


こういうことを知らずに『監督失格』を見て、観客が平野と林の関係に怒ったり、感動したりするのは、中途半端なことであると思うのである。多くの観客や、少なくない作り手にとって、「映画作品」というのは、実は作品ではなくて「タイトル」にすぎない。自分の人生の途中でふらりと迷いこんで、いっとき楽しみ、そしてその場を後にする、そういうようなものでしかない。それが作られたものなのか、自然にできたものなのか、そういう区別はどうでもいい。すぐにか、あるいは時をおいて忘れてしまうものである。


平野がアダルトビデオの監督として暮らしていく決断をして、最初に女優として彼のまえにあらわれたのが林であったらしい。自分らしさを表現にこめようとして苦闘して、うまくいかない経験をして、平野には、林が、なにか克服するべき対象のようなものに思えたらしい。恋とか愛とかは、まずは言葉であって、その内実は、映像をみて判断するしかないのだが、『監督失格』の由美香パートには、自己の来歴を寝物語に平野に語る林の映像がおさめられているのだが、反対に、同様のことを平野が林にしかえした様子はない。あるいは、そういうことをしても、平野が映像に残さなかっただけかもしれない。


この映画の題名である『監督失格』とは、生前の林が平野になげかける軽い意味の常套句であったようで、それを意図して重く受け取ってみせているわけだ。ここ一番の時に肝心の絵をいつも撮り逃す、なんだ、監督失格だね。この林の平野への寸評が、『監督失格』をつらぬくテーマへと変貌していく。自分は映像で食ってきたのに、肝心なものを撮り逃してきたのかもしれない、それも、常に。こういう感情に、平野がとらわれた、というそのことが、『監督失格』の一番のコアなのである。自分のあるべき姿を、じつは見失っているのかもしれない、そういう漠然とした不安にゆっくりとむしばまれている男と女が出会って、いちど心を溶け合わせて、しかし別れて暮らしていて、かつ、連絡は絶やさないことで同士的感情は維持していたのに、ある日とつぜん、女の方が死んでしまった。とはいえ、重要なことだが、林由美香は死の寸前まで平野勝之が監督であることを疑いはしなかったろう。


林の愛が問われているわけでも、平野のエゴが問われているわけでもない。問われているのは、「映画はどうしてこうなった」ということなのだ。この映画は、じつは過去30年の映画について反省する契機をもちながら、その考察を封印してしまった、そういう作品であるのだ。東宝シネマズ六本木などという大劇場で、この作品が上映されるということが、そもそも庵野秀明あたりの人々の思惑なのだろう。


平野の妻が言及されないことを作品の不備として指摘する批評があるようだが、それはずいぶん浅い見方である。この映画の功労者はあきらかに林由美香の母である小栗冨美代であって、はっきりいってこの人物はそうとうに興味深い。平野が彼女を深く取材しなかったことが悔やまれる。平野が不手際によって、小栗に撮り直しを申し込む際に、笑いながら小栗はいう「もうボケちゃってるんじゃないの」。とうぜん平野はここに林の「監督失格だね」の映像を挿入するのだが、遺伝ということを考察する小説『ドグラ・マグラ』に心酔する私などは、こういうところに慄然とするわけである。映画の前半には、『由美香』撮影前に林が平野に小栗を紹介するシーンがあるのだが、これなども遺伝テーマの前振りとしても機能するのだ。