『カウボーイ&エイリアン』、アメリカ人が紡ぐ架空の「本土決戦」

興味深いという意味で面白い映画だが、楽しめるかどうかは微妙である。そういう映画だった。


『アイアンマン』のシリーズを見て思ったことだけれど、この監督はVFXをつかって中年の、しかも男の話をすることに深く魅せられているようだ。マチズモの現代的表現を探ることに夢中になっているのだ、ともいえる。私などには、このジョン・ファブローという監督はジョン・ラセターとか、そのへんの監督の関心に通ずるものを感じてしまう。


話としてはごく単純なもので、妻を暴力的に奪われた男が、一時的に記憶を失い、人々の助けを借りながら、事件の決着をつける、という物語と、もうひとりの男が自分の実際の息子に失望していて、かわりに期待をかけていた若者と生死をともにする体験を経ることで、真に息子と向き合う勇気を手に入れる物語とが交互に語られるのである。前者の男をダニエル・クレイグが演じ、後者をハリソン・フォードが演じる。ここまでヒネリやサプライズを用意することなくストーリーテリングに終始するハリウッド映画というのも、最近めずらしい。


牧師兼医者の老人が死んでから、クレイグらと行動を共にしていた女が死んで、しかしある理由で生き返ったあたりまで、私はウトウトしていたので、もしかしたら大事なエピソードを見逃しているのかもしれないが(いっぺんエイリアン部隊と交戦して人間側がしたたかにやられたようなのだが…)、金(きん)を収奪して、人間の肉体を切り刻んで臓器を抜き取るエイリアンは、要するに現代アメリカ、ひいては近代的科学文明や資本主義のカリカチュアライズなのである。エイリアンのロケットが、事故を起こしたスペースシャトルそっくりに爆発四散するあたりから考えると、そういう解釈でいいのではないだろうか。アメリカ人によるアメリカ批判なのである。そういうことをするために、西部劇や宇宙怪物など、「映画の嘘」が動員されるのである。なんだか感動的ではないか。『スーパー8』よりも、一段大人の映画になっていると思うのである。この映画も、『スーパー8』も、スピルバーグが促して作らせているのだが……。