既視感について

なぜ年をとると時間の経つのが速くなるのか 記憶と時間の心理学

なぜ年をとると時間の経つのが速くなるのか 記憶と時間の心理学

12章の、「「楕円形の鏡のなかを私たちはドライブする――既視感体験について」」を読んだ。小谷野さんは、既視感を誤認識と呼んでいたけれども、どうも多少(あるいは大幅に)違うのではないだろうか。既視感は、いっけん関連がないような離人症や単語疎隔(親しんでいた言葉の意味が急にわからなくなってしまうこと)などと関連が深い、ひとつの心の現象であるようなのだ。


もともと小谷野さんの議論で、あれあれと思うことがあって、私は、小谷野さんが歴史を、まるで現に実在しているもののように語るのに、違和感を感じるのだ。


小谷野さんの持ちネタであるところの、「便宜的な時代区分は便宜であって実在しない」説というのも、これだけ聞くとしごくごもっともな話に聞こえるのだが、どうも詳しく話を聞いていくと、なんだかあやしいのだ。歴史、つまり事件は、実在ではなく生起して消滅する事象にすぎないと私などは思うのだが、小谷野さんにとっては、そうではなくて、過去に存在して今は消滅した、なんというか、風化した石像のようなものに感じられているらしいのだ。私は時代区分はおろか、歴史そのものだって実在はしないと思っているのである。記憶もまた、実在しない。


過去になにかがあって、証言だけが「現在に残っている」。歴史なんて、それだけのことでしかないのにね、と私なんかは思うのだ。だから証言の効力を競って、アカデミズムのなかで侃々諤々とやりあっている。そう、やりあって「いる」わけだ。現在形。常に、現在形なのだ。