はしゃぎを自制できない・おちこみを振り払えない

kokadaさんが春日武彦の本を紹介していて、私は吉永嘉明の『自殺されちゃった僕』の文庫版解説で、春日に対しては悪い印象を持っていたので少し気になった。談志の高座が躁なのかどうかといったことはどうでもいいことのように思う。落語は彼の仕事だったのだから。


というよりも、談志は、落語以外の名目でテレビにでることがあまりに多くて、高座は名演だったのかも知れないが、この落語以外のテレビ出演がとてもつまらなくて、それでもしゃしゃりでてきていたのだから、躁鬱の気質はあったのだろう。だからといって、私はそのことをいちいち不気味に感じたりはしないが。


いちおう春日著を見に図書館に行ったが、区内の別の館に所蔵とのことで、そこまで追いかける(予約をして到着を待つこと)気も、ない。


そのかわり、ビンスワンガーの『うつ病と躁病』(みすず書房)を借りてきた。ビ氏の現存在分析についての総論的講釈は、ただただ鬱陶しいので、それはとばして、症例の紹介だけ読む。これははなはだ参考になる。


躁うつ病といえば、北杜夫、ということになる(?)のだが、しかし彼の挙動不審な様子を収めた映像というのは、ないのではなかろうか。私は北にはあまり興味が湧かないので、これは当てずっぽうで言っているだけなのだが、こういう人、つまり自分の病気について自分は頻繁に記録に残すのに、他人による記録には自分の病の痕跡を残さない人というのは、信用ならない気がするのである。まあ、作家を信用できるとかできないとか言うのは、グフとドムとはどちらが強いのかと真面目に考えるような幼稚な行いではあるが…。


北に対して、自分の病を他人の目に堂々とさらした(?)のは、有吉佐和子である。私は「笑っていいとも!」の有吉の映像を見たことがないと思うのだが(過去に見ていて忘れてしまっているのかも)、有吉没後に橋本治が有吉は病気ではなかったという主張をするために、番組ジャックが有吉の暴走による事故ではなく、番組スタッフが事前に承知している演出であったことを暴露したこともあった。私は二十代の頃は橋本に心酔していたので、私もまた橋本のようにテレビ番組のスタッフに憤ったものだった。


私にとっては、躁うつ病とはとても単純なことで、心の抑えが利かない状態はみんな躁うつ病である。それを文学的哲学的に解釈しようとすると、ビンスワンガーのように代表象だの共同客観世界だのといった術語を要請することになるし、脳科学的に記述しようとすると面倒くさい化学物質の名前をあれこれを憶えなければならなくなる。私は別に専門家ではないのだから、どちらの厄介も御免こうむりたいのである。