『真幸くあらば』、『ドラゴン・タトゥーの女』、などなど

YouTubeで、シリアだかリビアだかの処刑現場をカメラがおさめた動画を見た。撮影者なのか、周囲の人物なのか、とにかく画面外から興奮した調子で、男がわめきつづけている。もちろん何を言っているのか、わたしにはさっぱりわからず、英語でないことが了解できるくらい。壁のうちがわに広場があって、それは舗装されていず、土がむきだしになっていて、後ろ手に縛られた男たちが並んで地面に横たわっている。画面の解像度が低かったことをわたしは感謝するべきなのだろうか。頭が割れて中身がこぼれている遺体もあるようだったが、カメラは終始、混乱して目が泳いでいる人間の視線を模倣して、落ち着くいとまもなく空間をさまよっていて、詳細なところははっきりしない。地面を流れる血の色が作り物の血糊のように赤い。ざっと見たところ二十人か三十人は殺されていたようだ。撮影者はいたたまれなくなったのか、数分で広場の外に退場した。


真幸くあらば』。まさきくあらば、と読む。映画のタイトルなのだが、原作小説も同題である。見そびれていたのが、再上映される機会をつかんで、やっと観たのである。これは死刑をテーマとした作品で、死刑を考えるという企画の上映会の一本として選ばれたのであった。わたしは、主催者にはちょっともうしわけないようだが、いまは死刑については考える余裕がなくて、なのになぜこの作品を観たかったのかの理由を失念していて、しかしこの作品をみたいと思っていたことだけを憶えていて、その飢えのような思いを満たすためだけに観客になったのである。案外、テリー伊藤の演技を観てみたいとか、そういう軽い欲求だったのかもしれない。


映画は、なかなかいい感じだったのだが、後半から急に演出が息切れをはじめて、尻切れトンボになってしまうのが、ちょっと驚いた。原作者が上映後に教えてくれたところによると、監督が撮影直前に降板して、音楽監督ゆかりの詩人が急遽映画の演出を担当することになったのだそうだ。そういう意味では、これはよく頑張った作品なのではないかと思う。


わたしは原作者の小嵐九八郎(こあらし・くはちろう)さんを知らなくて、原作者トークのときも、小嵐さんが自分のことをしきりに「鍵屋で刑務所に入っていた」というのを何だろうと思っていたのだが、これは「鍵屋」ではなくて「過激派」なのだった。


図書館で『真幸くあらば』を探したのだが、他館にしかなくて、仕方なしに小嵐さんのエッセイ集『蜂起には至らず 新左翼死人列伝』を借りて読み始めたら、これがめっぽう面白く、独特の、語りかけるような、しかし独白のような、不思議な文体にひきこまれた。とりあえずエッセイとしたが、新左翼の活動家たちの小伝をあつめたもので、樺美智子から島成郎まで、学園紛争から内ゲバ新左翼サヨクになって忘却されはじめるまでの時間をカバーしている。


わたしは左翼には興味ないんだよなあ、と思いながらこの本を眺めていて、しかしふと悟ったのだが、本当は左翼に興味がないのではなくて、連帯に興味がないのであった。わたしよりも三十年も年長の小嵐さんが、1950年代の反体制運動の様子がつかめなくてもどかしい思いをしているらしいことに、共感と同時におかしさを感じてしまう。わたしは、自分が生まれてもいないのに、1960年代の学生運動を、なんとなくわかっているような気でいるのだけれども、1950年代のそれにはそういう感じを持たないからだ。


それは、もしかしたら社会体制というものが変化して、1960年代に、だいたいいま現在のものに落ち着いたからなのかもしれない。国家がエリートを育成して、省庁や一流民間企業に才能を配分するという二十世紀前半型のありようが崩れ始め、ポップスを好み、ジーパンを穿いたままでも社会に参加できる時代に、わたしが生まれて成長したからなのかもしれない。


活動家というのも、だからわたしにとっては、わたしの世代よりも上のもの、端境期の事象、という印象が強い。江戸時代のかくれキリシタンの物語を聴かされているような気がするのだ。


ようするに思想を訴えて、他者を仲間に変え、仲間と共に敵に挑み、敵を倒すか要求を飲ますかして、自分たちのいいように決まりや仕組を変える。彼らはこういうことをやっていたようなのである。その究極のものとして、国家の奪取というか転覆ということを考えていたわけだ。


日本では試みられることはなかったけれども、社会の近代化を求めるのでなければ、わりと容易に国家の転覆はできるのであって、これも最近観た映画なのだが『僕たちは世界を変えることができない』のカンボジアのように、近代化を拒否して、不満層や知識人を殺してしまえばいいのだ。


いま現在の世界の問題は、人間が近代を徹底できないこと、前近代的な社会関係を維持するために近代的な技術を利用してきたにすぎないこと、本当に近代的な思想に準じて生きていく世界にわたし達が踏み出せないこと、というあたりにあるようである。原発に電力会社の社員がほとんどいないのは電力会社の組合がうるさいから、というのなど、矛盾もいいところだろう。



ドラゴン・タトゥーの女』は、原作を読んでいないのでそれと映画との対照はできないのだが、どうも面白くないもので、監督のデビッド・フィンチャーは前作『ソーシャル・ネットワーク』あたりから、それほど面白くない素材をしかし二時間とりあえず飽きさせずに観客にみせてしまうという芸を会得してしまったようで、面白くなかったけれども、まあいいか、という感じである。


だいたい、死体があがっていないのに、関係者たちが「ハリエットが死んだ」と思い込んでいるのが変なのであって、こういう自分勝手な前提を舞台に施すのは、ダメなミステリーの常道である。


この監督がその作品の見てくれに反して「殺人」に関心がないのは、わりと多くの観客たちも感づいているところで、この人が興味津々なのは「殺人」ではなくて、じつは「セキュリティー」なのである。このへんが、似たような映像の雰囲気をたたえるリドリー・スコットと大いに違うところであって、デビッド・フィンチャーの映画は、ほっておくとどんどん世界がせせこましくなってしまう。セキュリティーをめぐる自分と外部の葛藤にしか興味がないからだ。


ドラゴン・タトゥーの女』は、肉体とイメージの関係について、まるでそれが裏テーマであるかのように頻繁に言及されていて、リスベットが精神科医に犯されるところをリスベット自身が盗撮するシーン、ミカエルのコテージの玄関に遺棄された猫の死骸をリスベットが撮影するシーン、リスベットが仕掛けた監視カメラによって真犯人をリスベットが確信するシーンなどがそれで、監督もこういうところはノリノリで撮っているようだ。まあもちろん、この作品自体が、ハリエットがパレードの観客たちの中に誰を見て恐怖したのかということが物語の要となっているし、さらにいえば映画そのものが、そもそも俳優の肉体を撮影するものなのだが、デビッド・フィンチャーの映像は、過剰に俳優をモノ化するのである。


話の切り口を変えてみれば、フィンチャーは自我は描けるけれども愛は描けない、といった感じになるだろうか。愛はそもそもセキュリティーの管轄外に存在するからだ。『ドラゴン・タトゥーの女』のメインストーリーが終わったあと、蛇足のように描かれるリスベットの冒険は、フィンチャーとしてはリスベットの無償の愛を描いたつもりなのかもしれないが、うまくいっていないようにわたしには思えるのである。無償の愛は、せっかく買ったコートをゴミ箱に投げ捨てたりはしないものだからである。