『メランコリア』

なんだか人がたくさん死ぬ映画ばかり見ているような気がするが…。


そういうことを考える必要は本当はないのだろうが、この映画をどう見れば、つまりどう受け取ればいいのか、ちょっと考え込んでしまったのである。


自分の披露宴をみずからぶち壊した花嫁が、鬱をわずらい、その直後に超能力者となって(?)、その場にいなかったはずの豆の数をぴったり正確に当てる(ずいぶんしょぼい超能力だ)。その後、地球に接近した巨大惑星が(彗星とかではないのがスゴイ)そのまま地球を回避することなく地球に激突し、地球は消滅する。そういう映画である。


前半の結婚式のシーンは同監督の旧作『奇跡の海』を思い起こさせて懐かしい。反抗的かつ破壊的な心情を抑制できなくなった主人公が、周囲の人物に迷惑をふりまくさまを淡々と描く。『奇跡の海』で主人公をそうさせたモメントは宗教的確信なのだが、『メランコリア』で主人公を突き動かすのは、名づけようもない破壊的心情である。


私もけっこう鬱に悩まされるほうなので、このへんの心理的カニズムはよくわかるのである。細かいところをすっとばして本質的なことだけ言うとすれば、鬱病というのは、死にたいのに死ぬ度胸がないことへの言い訳を他に求めるウダウダの総体のことなのである。死のうと思ってすぐに死ねちゃう人は鬱病を患わないのである。自殺した哲学者の須原一秀がいい例である。主人公が父親(ジョン・ハート)に愛着をもとめて、しかしそれが叶えられないくだりは、こういうことに関してトリアーがよくわかっている証拠だろう。父への愛着をうまく夫に振り向けることができなかったのである。


後半は、トリアーの放恣な妄想につきあわされているだけの気がして、さして楽しめなかった。鬱病の果てに自己を失った廃人が、それゆえにかえって強者となる倒錯した世界を描いているのである。あの世界が「本当」だったら、キーファー・サザーランドは自分の息子を殺してから死にそうなものだ。鑑賞後、シネコンのエレベーターの中で『ミスト』を引き合いに出していた観客がいたが、こういうあたりが『メランコリア』と『ミスト』の似て非なるところである。


トリアーとしては、鬱病から快癒したことを自慢したくてこういう映画を作ったのかもしれないが、情動の細やかさはフランク・ダラボンよりも劣っていると感じられた。


オペラの場合の「序曲」に相当する冒頭部分の動画があった。