わずらわしさから遠ざかった結果

週刊朝日北原みのりの傍聴記を読んだのだが、婚活殺人の容疑者の話ができすぎていて眉唾な気がする。私が読んだ号では、肉体関係なしに金を貢ぐ男というのが容疑者にいて、与えられるがままにその被害者から金を受け取っていたそうなのだが、容疑者は独居老人である被害者の風呂場をのぞいたら、不潔な感じがいやだった、というディティールなどを裁判官や傍聴者に紹介していて、これがあまりにもまことしやかでかえってうそっぽいのである。


この被害者氏が(実際にも)どうも世間と没交渉な人であったらしく、まあ、女に金を貢いでいることなど普通に社会と交流を持っている人であっても話題にするようなことではないが、とにかく容疑者の話とクロスチェックすることができないのがもどかしいよね、という話。


話はとぶが、私は聖書をたまに拾い読みする癖があって、イエスというのは、ほんとうに筋金入りのひねくれものであるなと、軽く尊敬の念を抱くのだが、同時に、なんで西洋社会はああもキリスト教を、それはもちろんその時代や社会にあわせて教義やその運用についての変更が適宜施されていたであろうにしても、これを体制宗教として奉っていたのであろうかと思うのである。まあ直感的に、ああ、だから反ユダヤ主義というものをベースに用意して、イエスのひねくれもの性とでも呼ぶべきあの感じを、西洋人たちは見ないようにしていたのだな、ひねくれていたのではなく当時の限界状況に対する当然の反応をイエスは示していたのだと解釈していたのだな、とは思う。あくまでも直感的にだが。


情報化が進展した現代では、世俗的ということがどういうことだったかが、だんだん思い出せなくなってくる。たいして社会的責任を負っていない者でも、現代ではそれなりに内省の機会をあたえられているからだ。ツイッターでおのれの社会観を披瀝している、あまり頭がよさそうにみえない人なども、自分にあたえられた裁量の枠内で、存分に内省していて、その結果を140字以内でアウトプットしているわけだ。


くだんの被害者も、だから日記とかメールとかで、実在の他人に近況報告をしていたら、容疑者の話がほんとうだったかどうかがチェックしやすかったのに、と思うのだ。ツイッターの利用者は、この被害者氏ほどには頑なではなかった、というわけだ。しかし、他人の談話の内容が本当かどうかは結局のところよくわからないというのが、このブログのテーマのひとつではあるけれども。


人の頑なさというものはいったいなんなのだろうねえ、ということを思うのだ。わたしはヒューマニズムを信奉したりはしていないから、人間らしさや人間らしさの束とでも呼ぶべきものが、人倫として確固として存在するとは思っていない。それはキリスト教徒やイスラム教徒が神と呼んでいるものと結局は同じではないかと思う。リチャード・ドーキンスに信用が置けないのも、かれが反宗教にこだわるからだ。インテリたる者は、おのれの教義にそぐわない裏切り者を血祭りにあげる異民族たちを、ヘラヘラと笑いながらディスクライブするくらいであってもらわなければ困る。